しからば、石田三成は家康や七騎衆をどのようなかたちで討ち取ろうとしていたのだろうか。時系列物差しで計ってみよう。慶長五年八月六日、三成は信州上田城の真田昌幸に次のような内容の手紙を送った。
「二十年来の太閤様の御恩と比べたら昨年来内府との入魂はわずか一年、大坂城には秀頼様がおられ、城下には人質がいる。以上をわきまえず家康に味方しようとする者などあろうとは思われない。家康が一万として上方の与力は二万がよいところだろうから、やって来るようなら尾張か三河の間で討ち取るばかりで、まことに天の与えというほかない。そのとき貴殿が会津・佐竹と一緒に関東に乱入すれば切り取り勝手次第である」
七月七日付佐竹義宣宛の書状でも三成は同じようにいっている。
「万が一にも家康がうろたえて西上してくるようなら尾州と三州の間で討ち取る考えである」
佐竹義宣は三成を七騎衆の襲撃を継げて逃亡の手助けをした男だから何でも打ち明けられたのだろう。三成の皮算用では七騎衆のメンバーは家康に味方するとしても彼ら以外は大坂に馳せ参じるという読みがあった。それにしても三成が家康の西上を「万が一」のことと考えているのには驚かされるばかりであるが、それも西軍が東軍を圧倒するという目論見を前提とするからであり、この時点では当然というべきかもしれない。
だとすると、家康は関東に居座ることになるわけで、北から上杉と佐竹、東海道筋からは三成が攻め下るとして、中仙道筋からも攻め手が欲しいところである。家康を関東の袋小路に追い詰めるためにはもう一手、信州上田城の真田昌幸は何としても味方にしなければならなかった。
ここが肝腎要の切り口なのである。
真田昌幸の子・信繁の正室が大谷吉継の娘であるために三成は策を弄して吉継を味方に引きずり込む必要があった。三成が昌幸を味方につけたため、家康は東海道本隊のほか中仙道を行く別働隊を編成する必要に迫られた。留守の江戸を襲われないようにするためである。上杉と佐竹の抑えにはすでに結城秀康を残した。西に攻め上りながら江戸の守りを手当てしたということは、家康は三成の手の内を読み切っていたわけである。三成にとってはまさかの誤算であったが、それ以上の誤算が小山会議の結果であろう。
七月十九日、大坂の増田長盛から家康の家来永井直勝に宛てた手紙が届いた。それが三成挙兵を告げる第一報であった。会津へ向けて江戸を発つ準備に追われる家康は増田長盛の手紙を見せられても動ぜず、二日後の二十一日、予定通り小山に向かって進発した。そして、何食わぬ顔で小山会議を召集した。
家康は三成の挙兵を諸大名に告げて去就は各人の自由に任せるといった。
第五回講座で述べたように自分だけ側室お万の方の身の安全策を講じてきたことが負い目となって、それが高いハードルとなり、妻子を人質として大坂に取られている諸大名の心情に配慮するほかなかったのである。家康が信頼を何よりも最優先させた証左ではないだろうか。
それに呼応するかたちで、福島正則が率先して発言し「打倒三成」をぶち上げた。従軍した大半の大名が正則の動議に賛成したばかりでなく、なおそのうえに掛川城主山内一豊が「城を返却する」と申し出た。掛川城はもとより駿府城、浜松城、岡崎城ほか東海の城はかつて関白秀吉が小田原討伐の軍を起こす際に体よく取り上げた経緯があり、それをアンフェアと受けとめていたからであった。思えば会津の上杉の不穏な動きも会津と引き換えに越後を手放さざるを得なかったのが原因である。そうした背後の経緯をよく踏まえたうえでの申し出だったからたちまち波及して、中村一栄が沼津城、中村一忠が駿府城と興国寺城、有馬豊氏が遠江横須賀城、堀尾忠氏が遠江浜松城、池田輝政が三河吉田城、田中吉政が三河岡崎城、西尾城、水野勝成が三河刈屋城の返上を相次いで宣言した。清洲城は織田信雄の居城だったのだから家康に返上する理由はなかったのだが、福島正則まで「清洲城を明け渡す」といいだした。
なぜ、そうまでする必要があるのか。
家康に取り入る気持ちも皆無とはしないが、豊臣子飼いの大名は秀吉のペテンを見抜いており、徳川氏の城を持ちつづけることを長いこと気持ちの負担としてきたことを物語る事実である。
会津討伐軍先発隊の諸大名は秀長人脈といってよいだろう。秀長亡きのちは「政かか」人脈というべきかもしれない。それに対して先発隊に間に合わなかった遅参組や西軍参加組は中国陣以降に取り込まれた秀吉人脈である。前者の代表格が大和大納言家の家老だった藤堂高虎、後者の代表が幼いうちに養子になって豊臣姓を名乗った宇喜多秀家である。そういう図式で東軍所属と西軍所属が決まったのである。
家康は政宗や加藤清正らに加増を約束しているが、三成も全財産をはたいて加増合戦を仕掛けているのだから、そうした利害打算が決め手になったとは考え難い。加増や贈物は当時としては常識だろうから、それほど説得力を持たなかったと思われる。
かくして、三成挙兵の大前提といってもよい、
「二十年来の太閤様の御恩と比べたら昨年来内府との入魂はわずか一年、大坂城には秀頼様がおられ、城下には人質がいる。以上をわきまえず家康に味方しようとする者などあろうとは思われない」
以上の予想は大きく裏切られてしまった。
いかなる時代であろうとも、組織であるからには信頼の裏うちが不可欠であり、信頼なきときは烏合の衆になってしまう。会津討伐軍が東軍に転換していくあたりから関ヶ原合戦に至る過程ほどそのことを印象深く闡明してみせた合戦はなかった。
(つづく)
《訂正とお詫び》
第11回で中山道垂井宿を垂水宿と誤って書いてしまいました。ここにお詫びして訂正いたします。
《「その10」補遺》
大谷吉継が9月2日から藤川台に布陣している事実を小和田哲男氏が知らないという前提で記事を書きましたが、よくよく思い直してみて次のような考え方もあるのではないかと、その後、気づきました。
《読売新聞平成二十五(二〇一三)年八月七日付朝刊文化欄の連載コラム『戦国武将の実力』において、静岡大学名誉教授小和田哲男氏は「三成に殉じた『義の人』」のタイトルで大谷吉継を取り上げ、次のように書いている。ただし、前半部分は省略。
《吉継は、秀吉の使者として徳川家康と会う機会が多くあり、家康の人物とその器量を認めていた。秀吉死後、慶長5年(一六〇〇年)の家康の会津上杉攻めのとき、それに従軍しようとしたことにも明らかである。
ところが、吉継が上杉攻めに向かおうと美濃(岐阜県)の垂井まで出てきたところ、三成から佐和山城(滋賀県彦根市)に呼ばれ、そこで挙兵のことを打ち明けられたのである。このとき、吉継は三成に思いとどまらせようと説得したが、三成の決心が固いことを知り、また、盟友を裏切ることはできないと自らも行動を共にする結果となった。「義の人」といわれるのはそのためである。
吉継は奉行人として仕事をこなしただけでなく、人間観察眼を持っていた。関ヶ原合戦では西軍に属す形にはなったが、小早川秀秋の態度には不安を抱いており、自ら進んで、小早川秀秋の陣する松尾山の麓に陣を置いた。
合戦の当日、吉継が危惧した通り、秀秋の寝返りによって自刃させられることになる》
まず、初歩的な「事実の誤認」から指摘しよう。
大谷吉継が藤川台(松尾山の麓)に布陣したのは九月二日である。それから遅れること十二日、小早川秀秋が松尾山にきて頂上の砦に陣を置いたのは関ヶ原合戦前日の十四日であった。だから、事実に即して書くとしたら、「小早川秀秋は、麓に(自分と同じ隠れ東軍と知らされている?)大谷吉継が早くから陣地を構築しているのを十分に認識したうえで、自ら進んで、松尾山に陣を置いた」でなければならない。
おまけに、松尾山には家康の側近 本多忠勝と井伊直政の家来がきており、秀秋の家老稲葉正成・平岡頼勝に『九月十四日付誓書』を手渡していた。いつきたのかといえば、『九月十四日付誓書』の日付がアリバイで、十四日以外ではあり得ない。と、いうことは、本多忠勝と井伊直政、そして、だれよりも家康は小早川秀秋が十四日に松尾山にきて陣を置くと確信していたわけだ。
一体、これは?
なぜ、こうも、だれもが、関ヶ原が東西両軍の合戦場であることを見越したような行動を取るのだろうか?
吉継も、秀秋も、三成のいる大垣城へ、なぜ、行こうとしないのだろうか?
以上の疑問から、少なくとも九月二日の時点で、関ヶ原が東西両軍の決戦場になることが、東軍の間では既知の事実だったことが炙り出しになる。なぜなら、関ヶ原が戦場になるとわかっていなかったら、失明状態で歩行不能の大谷吉継が藤川台に陣を置くいわれがない。あるいはまた小早川秀秋が松尾山に陣取る理由がない。さらには西軍でこのことを知るのは「隠れ東軍」の大谷吉継と小早川秀秋の二人を除くと石田三成だけだったことになる。
事実誤認の二つ目は「隠れ東軍」の小早川秀秋を頭から「西軍」と決めつけていることである。だから、「寝返り」や「裏切り」の語が無分別に飛び交ってしまう。
すなわち、秀秋は三成の数次にわたる大垣入りの要請を無視して一カ月近く琵琶湖周辺をさまよい、何かの加減で急遽「関ヶ原入り」してきた。観天望気によって「九月十四日夕刻あたりから十五日朝方にかけて雨」と天候を読み、家康と示し合わせた「雨の日の前日」になって松尾山にきたというのが、いくつかの条件を満たす理由である。家康も中山道隊の秀忠を待つふりをしながら岐阜城に滞留をつづけ、一転して、秀秋同様に疾風のごとく赤坂にある東軍先鋒の陣にきて、岡山に本陣を置いた。いくつかの条件とは、笹尾山に掘られた塹壕と大砲五門であり、西軍陣地への肉薄に欠かせない暗闇の代わりの「雨と霧」である。
したがって、関ヶ原合戦を本格的に考証する場合には、秀秋の松尾山入りを家康の赤坂入りに対応させて考えなければ意味がない。雨と霧が東軍勝利への必須の条件だったのだから、結果として、それがたまたま十四日から十五日朝の間になったにすぎない。この事実をもって本考証は秀秋を「隠れ東軍」と断じているわけで、つまり、秀秋は寝返ったのではなく、逆に三成がちらつかせるおいしい話に迷いを生じさせたのであって、結局は最初から最後まで「隠れ東軍」としての態度を取りつづけ、家康から攻撃されそうになったために初めて旗幟を鮮明にしたということなのである。
ついでにいってしまえば、吉継もまた実は「隠れ東軍」である。三成が大坂の増田長盛に宛てた九月十二日付の書状を読めば彼が吉継の藤川台布陣に批判的であったことがわかる。加えて秀秋の松尾山到着を傍観したという事実、これは何を意味するのだろうか。小和田氏が説明するように秀秋が足場をしっかり固めてから相手の出方を危惧するというのは、解釈として幼稚である。「隠れ東軍」の同志だから到着を黙認したのであろう。
有名な垂井宿と佐和山城の行き来の場面における吉継の翻意の動機は、「三成だけでは反徳川大名を西軍陣営に集められまい」という判断から三成に加担し、西軍の召集にこれ努め、それとなく家康に報いたというのが真相に近い。会津討伐のためわずかな手勢で伏見から東下していく家康を水口宿に襲えばわけなく殺すことができると決断を迫る島勝猛の進言に三成が応じなかったのは、家康を殺しても福島正則らが自分のいのちをつけねらうから助からない、というのが理由であった。前田利家が亡くなって、福島正則、加藤清正ら七将にいのちをねらわれたとき、三成は島勝猛、蒲生郷舎とともに家康の伏見向島邸に逃げ込んだ。その決断をもたらしたのは、「家康が真に天下を望むなら道連れなしに自分一人だけを殺すようなことはしないであろう」という考えにほかならない。
だから、小和田氏の「吉継は三成に思いとどまらせようと説得したが、三成の決心が固いことを知り、また、盟友を裏切ることはできないと自らも行動を共にする結果となった。『義の人』といわれるのはそのためである」という説明のうち正しいのは「吉継は三成に思いとどまらせようとしたが、三成の決心が固いこと知り」「みずからも行動を共にする結果となった」という目に見える表面的な事実のみで、解釈に相当する部分は間違っている。解釈には「『義の人』といわれるのはそのためである」も含まれるのであるが、吉継が「義の人」であるのは確かで、その点では正しい。だが、三成に対してではなく家康に対してなのだから、「解釈が違う」といわざるを得ないのである。
以上のことどもはいずれも論理的構造が少し複雑になっているだけで、実は前述の「初歩的な事実誤認」と同根の誤りである。
もう一度繰り返すと、「大谷吉継が藤川台(松尾山の麓)に布陣したのは九月二日であり、小早川秀秋が松尾山にきて頂上の砦に陣を置いたのは関ヶ原合戦前日の十四日、そのとき松尾山には家康の側近本多忠勝と井伊直政の家来がきており、秀秋の家老稲葉正成・平岡頼勝に『九月十四日付誓書』を持参していた」のは紛れもない事実である。小和田さんほどの識者がこうした資料事実を知らないわけがない。
では、事実を知っていて、なぜウソの解釈を公然と書くのだろうか。
おそらく、小和田氏に「ウソ」を書いたという自覚はないだろうと思われる。なぜならば、小和田氏にかぎらず、日本史の史家には「既存の解釈の使いまわし」という免罪符が与えられていて、むしろ、そうすることで物議を醸さない済むという間違った「分別」が働くからであろう。
「事実と既存の解釈が食い違っていることなど、他人から指摘されるまでもない。しかし、いまさら、どうせよというのか。国民的知見という猫の首にだれが鈴をつけるのか。おれはイヤだよ」
かくして事実をよく知る者同士が牽制し合い、それが習いとなり、とうとう「既存の解釈の使いまわし」が免罪符としての効力を得た、と、つい最近になって私は気がついた。
小説家が考証の方法論に三十年間尽瘁して精度向上にこれ努め、日本史の専門家は「資料主義」を唱えながら解釈にまで踏み込んで平気でウソを書く。実はこれが現実であり、それを許すのが「既存の解釈の使いまわし」なのである。問題を回避するためには既存の解釈と矛盾する「大谷吉継は九月二日、云々」を持ち出さなければよい。
ここで、資料主義の重しがものをいってくる。
さて。
資料主義に最も忠実な学者としては法政大学名誉教授の村上直さんがおられるが、「資料にない事実にはさわらない」というスタンスを厳格に貫いて、一般の読者から「村上さんは事実を伝えるだけだから、云々」と陰口を叩かれる。事実が示されているのだから、自分で判断すればよいのに、それが行われない。実に悲しく嘆かわしい現実である。
察するに、自分で判断すると、既存の定説と解釈が対立してしまうからであろう。専門家が判断を誤るわけがないという思い込みがバイアスとなって働くのである。真相はどうなのか、日本史考証の醍醐味は自分で判断することにあるというのに……。
翻って、専門家のスタンスを問えば、すべからく村上直さんのようでなければならない。なぜなら、日本史の考証は「絶対に間違えてはならない」からである。かくいう小説家の私ですら、犯罪捜査法を援用して「証拠能力のある事実」と「証拠能力のない事実」を峻別し、証拠能力のある事実すなわち「踏まえるべき事実」を積み重ねることで隠れた事実を掘り起こしても、それをもって直ちに「証拠能力を持つ仮説事実」とはせず、真実であると合理的に説明できるまでは「暫定仮説として扱う用心」を怠らない。
そして、資料主義の一線を超えて、日本史という新興宗教まがいの猫の首に鈴をつけにかかった。その恐ろしさは身にしみている。
「大概にしてもらいたいね。それ以上、もう、吹かないほうがいいよ」
「よりによって、NHKの番組を批判するなんて」
「今後は歴史を書いてきたら受けつけない」
などなど。
私はつい日本史の考証に没頭したために、浦島太郎になって小説家として活躍の場を失い、とうとう白い髭を生やしてしまった。だから、知名度を得て地位ある人なら猫の首に鈴をつけるような真似をするのはなおさらはばかれるであろう。まだ新人の域を出なかった私などは失うはずのものが得られないで終わるだけだから喪失感はわずかだが、小和田氏クラスともなればいきおい保身が分別にならざるを得ないだろうと思う。
だから、だれが悪いとか、そういうことではなくて、
「どうしたら既存の解釈の使いまわしをやめて、事実を隠さず伝えてもらえるようになるだろうか」
