さて、ところで……。
関ヶ原後、福島正則と前田利長に三万石で仕官しながら、その間、政重には妻帯した形跡がない。三万石取りの一家の主人として何かやむを得ない理由がないと通らないことである。
やむを得ない理由が阿虎問題だったとしたら……。
いかなる場合でも武士が迎えるのは正室が先である。側室が先に決まって正室があとになることはないから、政重は正室の座を阿虎のために空けておいたことになる。だとすると、理由は恋愛以外あり得ないから前項の推理推論はますます強化される。
こうした発想の仕方を「クロス・モンタージュ」と呼ぶことにしよう。
同一人物の事績を考証する場合、単一の資料事実だけではほかのことがわからない。しかし、兼続に入婿する件とそうする目的、宇喜多家に仕官する件とその目的という四項目四点間を線で結ぶと、交差する点にかなり蓋然性の高い事実が浮かび上がる。こうした新事実発見法を用いると資料主義の持つ限界にある程度の広がりを持たせることにつながっていくのではないだろうか。
説明を平明かつ容易にするために考証の結果を最初に明かしてしまうと、本多佐渡守正信というか内大臣家康は東西決戦後の世情不安を軽減する目的で西軍方の大大名にあらかじめ救済措置を講じるか、力を削いでおくか、あるいは双方併せて行うか、事前に手当てした可能性がある。
たとえば宇喜多家の場合を例に取ってみよう。西軍の副総帥として関ヶ原で派手に戦って敗走した秀家が当主だから、もちろん改易は免れなかった。しかし、幹部クラスは別として末端の家臣は継続して仕官したであろうし、それゆえにとあえていうべきか、関ヶ原の功により筑前名島三十五万七千四百五十石の城主から岡山城五十一万石に国替えされた小早川秀秋がわずか二年で亡くなり、小早川家は継嗣不在のため絶家になった事実を何と見たらよいのだろうか。秀秋の死は慶長七(一六〇二)年で病死と伝わるが、毒殺されたというのが真相らしい。事実とすれば三年足らずの間に旧宇喜多の臣による報復が行われ、家康は目的を達したことになる。いわゆる宇喜多旧臣の怨念のガス抜きである。旧主秀家に対する政重の尽瘁もガス抜きの一環と考えると辻褄が合う。岡山城には池田輝政の二男忠継が入ってから大事件が影を顰めたのはそのためだろう。見事なまでの戦後処理であった。
ここで初めて家康の目的がはっきりする。筑前名島三十五万七千四百五十石から岡山五十一万石への国替えは石高からすれば褒賞であるが、宇喜多時代の岡山は法華派とキリシタン派に分裂し、元来、主従の対立、反目、反抗が日常茶飯事であった。肉親同士の暗殺事件なども絶えなかった。ましてや、西軍の総大将宇喜多秀家は小早川秀秋が松尾山から逆落としに襲ったため敗北したのである。その秀秋が旧宇喜多の臣が残る岡山城に入れば無事では済まないのは最初からわかりきったことであった。
なぜ、そんなまわりくどい殺し方をする必要があったのか。
家康の後継者秀忠は愚かでもない代わりに切れ者でもなかったという。そして、秀秋と同年であった。親である自分が先立つのは明白、秀秋にそのつもりがなくても信望が彼に集まり、取り巻きが焚きつけて天下取りに出ないともかぎらない。家康が秀秋を目の上のタンコブ視する理由としては十分である。
ましてや、秀秋は三成が開戦直前に提示した好条件に迷い、戦機を誤って家康をやきもきさせてせっかくの戦功に汚点をつけてしまっていた。
では、だからといって、家康が関ヶ原で勲一等の働きをした秀秋を害したらどうなるか。外様の心は離れて厄介な状況を招く。折角、政重を用いて戦後の不安定要因を除こうとしている方針にも逆行する。それぐらいなら秀秋殺害を断念したほうがましである。
何かほかに方法はないものかと思案の末に、家康は当時の岡山人気質というか、揉め事の好きな土地柄に着目したのである。みずからは直接手を下すことなく、労せずして、家康は将来の憂いを除いたのだ。
逆もまた真なりで、家康がこうした策を講じなければ気が休まらなかったほど秀秋は傑出した人物だったようだ。前述したように、あるいはさらに重ねて後述するように、関ヶ原の松尾山にその日に陣取らなければ意味がないというドンピシャリの九月十四日午後の進出をピンポイントにやってのけたことから洞察して、秀秋が並ならぬ俊秀であったのは明らかである。秀秋を暗愚と評するのは「西軍贔屓」の腹いせ解釈で考証の対象にすらならない。
隆景という傑物を出しながら秀秋という因縁の養子を受け容れたために由緒ある小早川家はこの世から消滅するのであるが、それが備前気質のガス抜きになり、池田輝政の次男忠継を配置することでさながら沸騰する坩堝のようであった藩状がようやく安定をみた。秀秋の処置などは戦後の発案と思われるが、こうした経緯からわかるように、家康はあらかじめ戦後対策を念頭に置いて会津討伐に着手したとみて差し支えないであろう。
宇喜多家の戦後処理にこれほど意を用いた家康が会津対策に手を打たないはずがない。だから、宇喜多家よりも会津上杉家の対策が優先されるのが当然であり、こうした筋道からも政重が兼続に入婿する件は宇喜多家への仕官に先立つと判断するに至ったわけである。しかし、会津対策はすでに政略レベルの目的を遂げてしまった。阿虎との縁組は個人的なことであり、政重は会津に思いを残して次なる目標の宇喜多家に仕官することになっていく。
史実を整理すると、慶長二年八月、秀忠の乳母の子岡部荘八を斬って逐電した政重は正木左兵衛と名前を変えて宇治山田に身を潜め、大谷吉継に招かれて身を寄せてのち、慶長四年、宇喜多秀家に仕官して二万石を領した。関ヶ原では明石掃部と秀家を守り立てて善戦、戦後は近江堅田に身を潜めた。このとき、前田利長と小早川秀秋から同時に仕官を勧められたため高野山に隠遁、安芸国に転封になった福島正則に慶長七年まで三万石で仕え、以後、加賀前田家に三万石、慶長九年、米沢へ行き直江兼続の実の娘於松の婿となったからのことはすでに述べた通りであるが、戦前、政重が吉継に招かれながら宇喜多家へ仕官したのは秀家が西軍所属大名の代表格だったことを指摘するだけで十分だろう。もちろん、吉継が了解したうえでなければ実現しないことである。
この点をどう見るか。
