さあ、腹は決まった


 大谷吉継が政重の役割をあらかじめどこまで理解していたか、客観的証拠は皆無であり、役割自体がまだ仮定の事実なのであるが、最後の最後まで疑問を解きつづけていって疑問がゼロになるとき、すべての仮定事実が裏づけられたと判断するのがジグソーパズル法の定義でありルールである。現時点はまだ何一つ矛盾に行き詰まっていないのだから、ゲームを続行して次の考証ステージに進んで構わないわけである。

 三成は重家を預けようとしない、許しがたい背信であるが、強引に連れ出すわけにもいかず、さりとて背信を非難したところで解決するわけではない。

吉継が次にやるべきことは何か。

さあ、腹は決まった……。

人質となっている真田昌幸・信之・信繁父子の妻子を確保することである。信繁の妻は吉継の娘だ。三人すべてとはいくまいが、そのうちの一人でも確保するには三成の誘いに応じなければならない。事実、吉継は昌幸・信繁父子に手紙を送って、「御内儀」を預かったことを告げている。そのために軍勢を率いて恵瓊と大坂に向かったのである。七月十三日、京は上杉討伐のために出陣した軍勢を迎え「天下の騒乱」と受け取って人々が不安に陥ったということであるが、恵瓊は身軽な恰好で佐和山へ現われたのだから、時ならぬ軍勢は吉継が垂井まで率いてきた一千以外ではあり得ない。ほかに該当する軍勢がいないからである。文献によっては吉継がいったん敦賀へ帰って出直したように書いているものがあるが、すでに戦闘準備をしてきているのだから敦賀城に戻る理由がない。日程的にいっても垂井、佐和山、京、大坂という経路で行動したと理解するのが正しい。

 そうであるからには、吉継は在坂中に宇喜多秀家に随身する政重と面会して意思統一を図ったはずである。

「これよりは我も西軍になり切って汝に協力すべし。ただし、我は生きるを望まず、汝の生を見届けるのを旨とする」

 西軍に加担するほうが家康の本旨に適い贖罪にもなると考えて判断を下したことを吉継は政重に告げ、政重は吉継にその決断が正しいといって歓迎したはずである。

しかしながら、垂井宿以降の吉継の行動パターンを見るかぎり敦賀城主であることに未練というものがまったく感じられない。その理由は前述したように家康の犠牲のうえに成り立つ地位だからである。無事に暮らしたいと願ったとしても病褥で死を待つしかない。どうせなら戦場で戦って名を残して死にたいというのが吉継の本心なのである。相手が越後上杉氏から東軍に代わるだけのことだ。政重はそのことも含めて吉継の考えを支持したのである。政重もまったく同じ行動パターンを取ることになるのだから。

 ここで時系列的に少し遡って吉継が垂井から佐和山城下へ陣を移して三成と会談した場面に戻ろう。一千の軍勢を率いてくるからには吉継の腹は戦場で死に花を咲かせると決まっていた。

 七月七日、大谷吉継、佐和山城を去って垂井宿に戻る。

 七月八日、大谷吉継、平塚為広を佐和山城に派遣。

 七月十一日、大谷吉継、佐和山城へ入る。安国寺恵瓊が同席。

 佐和山城を去る段階で、吉継は身の処し方を考えたであろうから、その夜のうちに三成の誘いに応じる決断を下したのだ。と、なると、一千の軍勢を垂井に留めたまま行くわけにはいかないから、為広の役目は応諾の返事と軍勢を佐和山城へ異動させる事前通告でなければならない。諸書が述べるように三成を説かせる役割などではなかったわけである。

 さて……。

 合力を約して再来した吉継を迎えて感激したのは三成でもなければ恵瓊でもなく、石田家の家老島左近勝猛であった。二人の接触は少なくとも天正十六年に吉継が大和大納言家養嗣子問題の調停に関与したときに始まったとみて差し支えないと思う。

 想定し得る場面として次のような光景が考えられる。

 左近は吉継を迎えて感極まった。

「お味方くださるか……」

「滅び行くもののふへの哀憐。それがしなどは真っ先に体から朽ち果てようとする者、冥土への土産に上杉と徳川の仲を斡旋しようと思い立ったが、かくなるうえは是非もなし。滅びゆく者同士気持ちを一つにしないでおっては死に花とて咲くに咲けまい」

 西軍を死に場所と定めて、吉継は戻ったのである。

吉継は左近にも気持ちのうえで大きな負い目を感じ、借りがあるという思いがあった。左近が三成に随身した時期が特定されないとして昔から好き勝手なことがいわれてきたが、その時期は秀保の横死により大和大納言家が嗣子なく断絶してから間もなくの頃でしかあり得ない。仕官先を失った藤堂高虎、島左近、宇多頼忠のうち、まず娘を三成の継室に送り込んでいた頼忠が石田家に移籍して、高虎と左近は今後やたらな主君に仕えないことにしようと自戒しながら高野山に入った。高野山を選んだのは秀吉が加害するのではないかと警戒したためかもしれない。経過は不明だが高虎は秀吉に仕え、左近は三成に迎えられるのだが、パターン尺度に照らしてそのときの説得の使者が吉継だった公算が大きいのである。

 大和大納言家断絶は時あたかも文禄四年四月十六日、わずか二ヵ月足らずのちの七月三日には秀吉に意趣を含められた三成が関白秀次を詰問、でっち上げの罪状で高野山に押し込めたうえで切腹に立ち至らしめた。関白秀次家断絶が七月半ば、それを受けての八月、三成は堺奉行を兼ねた水口城主から佐和山城主に移封され十九万四千石の大大名に取り立てられた。

 秀吉が危害を加えることがないとわかったからには仕官して働き場所を得るのが侍の本分である。土木普請の好きな秀吉は築城センスのある高虎を望み、ならばとばかり三成は残る左近に目をつけて吉継の説得に期待した。そして、吉継は見事なまでに期待に応えたのである。

 太閤亡き今、高虎は家康に信頼されて前途洋々、それに比べて左近は……。

 吉継の左近に対する心の負い目はそこにある。

それなのに猛将と謳われた左近が落涙し頬を濡らしながら感激している。あまつさえ、左近は四男清正を呼び寄せて命じた。

「たった今、汝はわが身を擲ち、これより刑部様の目となり、手足となって、不惜身命の覚悟にてご奉公せよ」

 吉継も顔を覆う頭巾を濡らしたであろう。

お陰で無理に努力しないでも西軍の将として存分に働くことができる。吉継の濡れた瞳も今は晴れ晴れとしていた。

即日、吉継は三成に面会して談判した。

 会津討伐軍に参加を表明した手前、討伐隊と戦っては名分が立たない、戦う相手は在地の北国勢に限って欲しい。まず以上を配慮されたし。次に真田をはじめ各方面へ斡旋せよとの依頼は確かに引き受けるが、その前に大坂にいる真田の人質をそれがしに預けて欲しい。

 吉継はさらにいう。

「総じて貴殿はだれに対しても横柄であると評判である。貴殿に比べ内府殿は家柄といい、官位といい申し分なく、日本に並びなき大身でありながら、諸大名はいうに及ばず軽輩・小者にも愛想よく慇懃だから、だれからも好かれている。この先、内府殿を相手に本気で勝つつもりなら、毛利輝元・宇喜多秀家両人を上に立て、貴殿はその下について事を図る必要がある」

 大谷吉継・石田三成親友説があり得るとしたら、ここが唯一、裏づけとなりそうな箇所である。だから、御都合主義的にとびついて「大谷吉継・石田三成親友説」がでっち上げられたわけである。

 しかしながら、親友という概念に片思いはなく、あくまでも相互的なものだから、二人の仲はそれだけで明らかであり、吉継の忠告は友情というよりヒューマニズムから出たものだろう。それすらも三成は反故にしてしまうのだから何をかいわんやである。このようにターニングポイントを的確に把握し各時点に応じた事実と解釈を積み重ねるのが時系列尺度である。

 もう一つの見識物差し、識見尺度について言及すると、これらを用いるのは目に見える事実だけでなく目には見えない心の中までかなり正確に読み切ることができるからである。たとえば本多政重に与えた「敵味方往来勝手」という概念は一般的には珍奇な印象しか与えないと思われるが、その起源は南北朝時代にあり、現実に遊行寺の境内に敵味方供養塔がある。戦国時代でも合戦が終ると戦死者を敵味方問わず埋葬する場所が決まっていたらしい。戦う間は敵同士でも死んでしまったら敵味方の区別はない、そういう考えだった。政重は岡部荘八を殺害した罪で死罪、家康の密命を受けて戦後処理の事前措置を講ずるのは死んだつもりの任務、吉継は敦賀城主を擲っての参戦すなわち生ける死者という位置づけというか意味づけで考えると、荒唐無稽な印象はかなり薄れるはずである。

 しかも、敵味方往来勝手という概念を持たないかぎり政重と吉継の関ヶ原における本気な戦いぶりが理解不能に陥ってしまう。敵味方いずれに身を置こうとも武将の名に恥じない働きをする。そして、二人ともそれに相応しく振舞った。それに尽きる。結果が目的という原則にも矛盾しない。

 吉継の行動を再び時系列で追うと、彼の伏見城攻撃の参戦は七月二十二日であり、大坂から伏見へ向かったことになっているから平仄が合う。吉継の伏見城攻撃が三成の指図だとすると約束違反になるわけだが、吉継にとってはどちらでるよいことであった。伏見城が落ちた時点でようやく吉継は敦賀城へ向かうのである。そして、北国における吉継の戦いぶりは、調略を主体にするにとどまった。そして、まだ、この段階では、関ヶ原の地名などだれの念頭にもなかったのである 
(つづく)




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