松陰を美化しつづけなければならなくなった理由


 吉田松陰を正義の人として後世に伝えるためには、松陰を正義派の泰斗として崇め、対立した長井雅楽は俗論派としてこきおろし、未来永劫に陽の目を見せてはならなりません。いうのは簡単ですけれども、裏づけもなしにつづけるのは大変だと思います。理由は追い追い明らかにするとして、この構図というか論理の展開パターン、みなさま、お気づきでしょうか。

 今、この段階でそれを「おかしい。間違っている」といっても、説明は十分ではないと思われますので、ひとまず、長井健史検察官に論拠を提示してもらうことにしましょう。まず、長井検事が提示した佐久間象山、吉田寅次郎(のちの松陰)というおかしな師弟についてプロファイリングしてみましょう。

          

神奈川条約は幕府とペリーの連携プレー

 

 幕末開国史というとペリー来航から説き起こすのがばかのひとつ覚えになっており、後世の史家が軒並み「幕府は周章狼狽、何の対策もなく空しく手をこまぬいていた」と述べるのがお決まりだが、残念ながら幕府が周章狼狽した事実を記録した文献は皆無で、江戸町民が避難騒動を起こした事実が伝わるだけ。江戸の町民は何事もなかったとわかると二度目の来航時には野次馬に変身したくらいである。幕府は事前に対策を練り上げていて絶妙の駆け引きによって通商条約締結の先延ばしに成功し、かつての「薪水給与令」に少しおまけをつけた程度の「和親条約」で事を収めたというのが文献から読み取れる客観的な事実である。

幕府を威嚇した、白旗がどうのこうのと、それでも学者かといいたくなるくらい妄想を働かせてきたわけであるが、残念ながらペリーは本国に帰って国民的英雄から無能呼ばわりされる悲哀を味わうのが現実である。しかし、ペリーは幕府を威嚇するどころかアンドリュー・ジャクソン大統領以来の音物(プレゼント)外交に従い、実物の四分の一大の蒸気機関車、客車、レール一式ほか文明の利器をプレゼントして友好にこれ努め、確信犯的に通商条約締結を先送りしたとみなさないと、既存の幕末史ヘボ学者の勝手な思い込みのために、彼はうかつな人間だったことになってしまう。第一回目の来航のとき「武力を背景に脅しの一手に出た」といわれるペリーが回答を一年後に猶予してあっさり引き下がったというのも、考えてみれば論理的には成り立たない話である。

 嘉永七(一八五四)年三月三日、横浜村応接地で日米和親条約締結される。

ここに至る交渉でペリーが最も強く要求したのが最恵国条款であった。すなわち、他日、日本が第三国とアメリカより有利な条約を結んだ場合、直ちにそれをアメリカにも認めるというもの。この事実の向こうにベリーの本心がくっきり透けて見える。

 鎖国日本は自給自足経済で通商条約を締結しても意味がない。輸出する商品の用意がないばかりでなく、二宮金次郎の分度仕法による厳しい倹約生活は輸入品を必要としなかった。ペリーは「開国・開港」という実を取り「通商」という名を捨てたのだ。それが本国政府の方針でもあった

幕府はつづけて同年八月二十三日、日英和親条約、同年(十一月二十七日に安政と改元)十二月二十一日、日露和親条約、明けて安政二年十月十五日、日仏和親条約を締結。神奈川条約第八条の最恵国条款を楯にとっていずれの国にも通商を認めなかった。時の宰相阿部伊勢守正弘は「開国」は最早必至、「通商の先送り」を最大の課題と心得、アメリカを防波堤にしたのである。ペリーもまた日本の国情をよく見極め確信犯的に通商条約締結を先送りし、後続の英仏露に対し打つべき手を講じたのである。神奈川条約の最大の眼目ともいうべきこの点を見落としてしまうと、日本開国史上に輝く真相が暗闇に隠れてしまう。

 さて、ところで、林大学頭は伝統的に外国使節の応接を受け持つ立場だったから、いわばペリー応接の儀礼上の「責任者」にすぎない。阿部正弘の内意を受けて通商条約先送りの交渉に当たったのは海防掛大目付鵜殿長鋭、江戸町奉行井戸覚弘、月番の浦賀奉行伊沢政義らであったはず。三人のうち鵜殿長鋭はのちに各国と通商条約談判の全権委員となる岩瀬忠震の上役であった。

 

ペリー応接時の川路聖謨の役割

 

さて、ところで、横浜村応接所で進められた日米和親条約談判の際、日本側で最も物議をかもしたのが、開港する二港の選定であった。誤解のないように念を押すと、物議をかもしたのは開港することではなくて、二港をどこに決めるかであった。しかし、常識で考えれば開港することのほうが物議を呼ぶはずである。なぜ、逆の現象が起きたのか。

第一次ペリー来航直後、長崎に来航したロシア使節プチャーチン応接のために出張した川路聖謨が開国にも通商にも応じないと突っぱねて追い返したことで、攘夷論者から拍手喝采を浴びていたときである。阿部正弘にとって長崎はダミーで、横浜村応接が本命だった。なぜかというと、長崎は生糸の輸出に不便で、不向きだからである(説明しないでも意味はわかりますよね。生糸で稼いだ外貨で日本は近代化したわけですから、そのためにも生糸を輸出しないといけないのです)。結局、長崎は攘夷論寄りで決着させ、生糸輸出に適した横浜村では二港を開港することを急いで先に決め、開港場の決定をあとまわしにした。これが阿部正弘の頭のよいところである。

長崎の対プチャーチン交渉が攘夷論寄りの決着だったことから、外野は対ペリーも同様に収まるものと高を括っていたところ、あにはからんや阿部正弘にしてやられたとようやく気がついた。

「横浜村応接掛を長崎応接掛で総入れ替えせよ」

しかし、すでに二港の開港が決まっていた。文句をつけるとしたら、二港をどこにするかという問題しかない。かくして開港二港を決定する段階になってから、ようやく外野が騒然となった次第……。

さて、二港をどこにするかという段階で、川路聖謨は第一候補に函館を挙げてから、浦賀開港をやんわり主張した。川路聖謨が函館の開港に強くこだわったのは「将来、日本が開国するときはロシアを最優先する」と約束したロシアとのつりあいを考慮したためで、どちらかといえば浦賀はつけたりにすぎなかった。

江川坦庵は函館開港を支持したが、浦賀開港に反対して下田開港を強く主張した。函館がすんなり決まったのはこれまでの日露トラブル史を考えれば当然であろう。結局、神奈川条約に江川坦庵が望む下田開港が盛り込まれるのだが、これも物議をかもした。なぜ下田開港に決定したかというと江川坦庵が私費を投じて当地で建設計画を進める反射炉用燃料のコークスを輸入するためだったからである。反射炉建設費用とコークスの輸入原資を得るためにも、江川坦庵は生糸輸出の実現に大きな期待を持った。川路聖謨も函館の開港が実現したことで満足したわけであるが、ここにとんでもないお騒がせ者がしゃしゃり出た。松代藩士佐久間象山であった。

佐久間象山も、井伊直弼とともに「横浜開港の恩人」に挙げる人が多い。横浜開港説を最初に唱えたからといわれるが、それを基準にするなら恩人はペリーであろう。応接地は浦賀ではなく横浜村にせよと強く主張したのだから。

 

アンチ坦庵から出た佐久間象山の横浜開港説

 

 佐久間象山ほどみずからを高く評価した人間もめずらしい。

「余、二十以後すなわち匹夫にして一国にかかわることあるを知る。三十以後、すなわち天下につながるをあるを知る。四十以後、すなわち五世界につながるをあるを知る」

象山の言葉「五世界」はオランダ、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア五カ国を意味する。

五尺七、八寸(約一九〇センチ)という身の丈は今日でも見上げるような長身であり、筋骨たくましく肉づきもゆたかで、顔は長く、額は広く、金壺眼の奥の瞳は大きく炯々と光を帯びていた。外見と大言壮語だけで判断すれば幕末きっての英傑だったといえるかもしれないが、経歴を仔細に検討すると実際には張子の虎で、希代の横紙破りでもあったとわかる。

二十一で松代藩主真田幸貫に世子の近習に取り立てられたが、周囲との協調性に乏しく常に自説を固持し他人の説に耳を傾けなかったことから、いたずらに敵をつくって毛嫌いされ、三月に就いた近習の役目も五月には辞任のやむなきに至った。

三十前後で江戸神田お玉ヶ池に私塾「象山書院」を開き、江戸屋敷学問所頭取として返り咲く。外様から一代限りの特命老中に就任し海防掛を拝命した真田幸貫に再び取り立てられて顧問になると、西洋流砲術師範江川坦庵に無理強いして弟子となったものの韮山塾の厳しい稽古についていけず免許の取得に難渋した。だが、半ば強要する感じで免許を取得、坦庵の主張の焼き直しも同然の「海防八策」を藩主に提出。それでいながら、象山は自分の未熟を棚に上げてなかなか免許を与えようとしなかった坦庵を逆恨みし、本来なら師礼をとって恩に感じるところを逆に遺恨を強く抱いた。

四十代になったとき吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬らが象山書院に入門、横浜村がペリー応接地に決した。象山は藩庁に強要して軍議役となって警衛のため現地に乗り込み、坦庵の下田開港説を「彼は西洋の文明を独占しようとしている」と讒言、対抗して横浜開港説を唱えた。

浦賀開港説はすでに川路聖謨が唱え、江戸開港は問題外、独自に開港候補地を挙げるとすれば応接地の横浜村しかなかった。横浜村はわずか百戸前後、山手の付け根の元町から砂嘴が象の鼻のように細長くのびているだけ、まだ測量も行われていない段階だったから、当時としては実現性に乏しく、のちに対米通商条約条文交渉幕府全権委員を務める岩瀬忠震が再び横浜開港説を唱えてようやく実現をみるのであって、象山の横浜開港説は動機の不純さに照らして先見の明とするには程遠く盲説というほかないものであった。

 今日、野毛山に佐久間象山の顕彰碑があるが、彦根出身者が掃部山に勝手に建てた井伊直弼像と同じで史実にそぐわない。

 

密航を企てた吉田松陰の大誤算

 

 吉田松陰が佐久間象山の象山書院に入塾したのは嘉永四(一八五一)年七月二十日、ジョン万次郎帰国の直後で、ペリー来航の二年前である。松陰は象山の外面的虚像に惚れ込み友人知人宛の書簡などに最大級の賛辞を呈した。だからこそ迂闊にそそのかされて密航を決意したもので、松陰の象山に対するこの時期の評価は引用する値打ちがない。坂本龍馬が勝海舟に師事した当初の最大賛辞と瓜二つで参考にならない(事実と反する)二大虚像というべきか。

松陰の密航の動機はジョン万次郎の帰国にあり、漂流民を装えば罪には問われまいという短絡的なものだった。象山は松陰を焚きつけ、彼の壮途を讃える送別の詩を贈った。当時、松代藩はまだ応接地警衛の役目を幕府から命じられていなかったから、象山が横浜村で手引きをする約束だったのだろう。

ペリー艦隊の再来航が一月十六日(新暦二月十三日)、幕府との押し問答の末に横浜を応接地とすることに合意したのが同月二十八日、松代藩にも応接地警衛の命が下り、象山は藩軍議役として現地に詰め切りになった。密航の成否にかかわらず事実が露見すれば自分に累が及ぶ。象山はあわてた。しかし、松陰が江戸から密航の旅に出るのは三月五日のことだから、象山に連絡するつもりがあれば可能であった。

松陰は母の兄が住職になっている鎌倉の瑞泉寺に滞在し、象山と打ち合わせた通り、浦賀道から本牧を経て保土ヶ谷宿の女郎屋に投宿した。ところが、現れたのは象山のかつて門人中居屋重兵衛であった。中居屋重兵衛が伝えた伝言は松陰の供述書から推測すると、「密航地を下田に変更し、ペリーの旗艦にいる羅森に頼め」でないとおかしい。このとき、象山はこれまでペリーが旗艦としていたサスケハナ号が二月二十七日にマカオへ先発して、旗艦がポーハタン号に変更されていたことを知る立場にあったはずだが、なぜか松陰に伝わらなかった。伝えなかったというべきか。

 周到に準備した横浜から地理不案内の土地への変更、松陰は密航を教唆した象山の意図を知って裏切られ、水を差された気持ちで下田へ向かうアメリカ艦隊を追って旅をつづけた。そして、行き当たりばったり盗んだ小舟で暗夜の海上へ漕ぎ出したところ、盗難防止のため艪綱がはずされていて、帯から着物からすり切れては艪綱として使い果たし、下帯一つという武士にあるまじき姿でいるはずのないサスケハナ号を探してさ迷った挙句、舟と一緒に刀まで流し、ようやく乗船した米艦上で羅森の名を告げたがまったく相手にされないで、翌朝、ボートで送り返された。

松陰は昨夜のうちに岸に流れ着いた小舟から自分の大小と象山の送別詩の入った行李が発見されたのを知り、なぜか下田奉行所へ自首して出た。象山を道連れにするつもりだったのかもしれない。

 国禁を犯した松陰と教唆した象山は老中首座阿部正弘の寛大な処置で死罪を免れたのだが、以後、二人の関係は破綻した。

          

 秦野裁判長があきれていいました。

「長井検事、何をやるにしても人だなあ。松陰の密航失敗のキーポイントは『これまでペリーが旗艦としていたサスケハナ号が二月二十七日にマカオへ先発して、旗艦がポーハタン号に変更されていた』ということが松陰に伝えられなかったということだな。象山は伝えなかったんだろ。応接地横浜の警衛を受け持つ松代藩軍議役の立場からすれば、自分の息のかかった松陰に密航されたら困るものな。だから、わざと失敗させようとしてソラを使った。しかし、後でわかってしまった。それなのに松陰は密航の供述を二転、三転させながら、その重大な事実にまったく言及していない。どうしてだろうな」

「闇夜の海上を、そこには絶対に存在しないサスケハナ号を探して、あっちか、こっちかと右往左往して、ああいうみっともないことになったわけですから、いわないことに意味があるわけですね。秦野裁判長、いったとしたらどうなったでしょうか」

「いい笑い者になるわな」

「それが理由だとしたら、どうでしょうか」

「断定はできんがな。断定はできんよ。状況証拠でしかないからな」

「松陰の密航の前にジョン万次郎が勘定奉行松平河内守近直にアメリカの大統領に民間人でも立候補でき、役人が試験を受けて採用される仕組み、万次郎が見たことのない電信機以外の文明の利器はすべて語っているだけでなく、幕臣、陪臣の区別なく望めば万次郎から聞けたのだから、アメリカの政治行政の仕組み、経済ほか文明の現状、すべて白日の下にさらされていたわけですから密航そのものが事大主義の産物で、まったく評価に値しないことだけは断言できますよ」

「勝負あったな」

「だからこそ、阿部伊勢守は町人にまで対策を諮問したわけです。対策に困ったわけではなく、変化を先取りしたわけで、事実に語らせないで自分で語ることの怖さを垣間見せていますね」

「事実に教わる。事実に語らせる。それに尽きるな」

「井伊大老暗殺を公言する水戸浪士の向こうを張って老中間部詮勝暗殺を公言したのも、密航の動機と根は同じなんでしょう。これ以上いうと、私は長井雅楽の子孫ですから、誤解を受けますのでね」

「いわゆるバイアスだよ。毒をもって薬となす。バイアスの強い長井検事を俺があえて忌避しないのは、自分がバイアスまみれだと自覚してくれているから、逆にバイアスがなくなる、そのためなんだよな」

「ご期待を裏切らないようにします」

「頼むわ。今日はこれぐらいにしておこう。次は井伊直弼だな」

「はい」

 以上が長井検事の示した佐久間象山、吉田松陰が決行した密航事件の真相です。こういう事実を白日の下にさらさない日本史、既存の日本史の普遍的な瑕疵といえるのではないでしょうか
 

(つづく)




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