これまでを振り返って
伝える大事さ
2年以上前の話になりますが、
数年ぶりに会った地元の友達から、
「さゆりはクリスチャンになって変わってしまった。全然笑わなくなったし幸せじゃなさそう、かわいそう」
「どうして宗教に入ってしまったのか、他の道はなかったのか。何もできなかった自分が悔しい」
と言われたことがありました。
久しく会ったり話したりしてなかったにも関わらず、いきなり感情的に投げられた言葉にはショックを受けた訳ですが、
そのように言われた理由は【自分がクリスチャンになって、何を経験してどう変えられて行ったかの過程を示していなかったから】だろうと思いました。
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ラクな快適ライフを送るためにクリスチャンになった訳ではないのだから、笑ってない時もあって当たり前です。
むしろ今までが、色々苦しいと思いながらも「自分らしさ」に固執して弱さを隠しつつ、自分を騙しつつ、笑っていたのです。
自分ではなく神様が中心とした人生にシフトチェンジしたいと思っているのだから、前とは違う自分に変化して行くのはむしろ喜ばしいことです。
きっと、
神様の愛に魅せられたことがなければ、その愛を知らなければ、どれだけ素晴らしい方かを知る由はないでしょう。
知らないからこそ、私が「宗教」という未知なる枠組みの中に取り込まれたようで遠く感じるのでしょう。
人間は創造主ではなく造られた被造物なのだから、思い通りに行かなくて当然でしょう。
同時に救世主でもないのだから、自分で自分を救うことはできません。
日本で1%もいないレアな生き方をしているのだから、変に見られても不思議ではないでしょう。
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でも、大事なのは信仰を持つ自分が周りからどう見られるかではありません。
神様が私たちをどう見ているかを知ることだと思います。
神様から注がれる愛の大きさや深さは、私たちがどれだけ神様を否定しても変わることがないんです。
私たちが抱く人間的な意見や感情によって、神様の愛が失われることはないのです。
私たちが神様を愛すから神様も私たちを愛してくれるのではありません。
まず最初に、神様からの一方的な愛が私たちに向けられたのです。
それだけ神様は1人1人を愛しているんです。
自分が丹精こめて造った作品が、自分を忘れて嫌っていたとしても、ずっと愛を持ってその作品に目を留めているのです。
イエス様の十字架は、神様を愛す人だけのものではありませんでした。
イエス様を憎む人や嫌う人、拒絶する人のためでもありました。
それは、全て私たちが抱える人間的な罪を赦し、完全に自由にしてくれるためです。
自分を捕らえていた闇の中から光の中へ連れ出してくれるためです。
私はその友達を責めるつもりも嫌うつもりもなく、大事な友達の1人です。
クリスチャンについての詳細を知らなければ、私に対して同じように思う人もいるでしょう。
でも、1人1人に注がれている神様の大きな愛を知らずに全てを批判するのは、本当にもったいないことなのです。
一生に影響を与える最高なプレゼントが目の前に置かれているのに、開けようともせず捨ててしまうようなものです。
だからこそ、それを伝える人が必要なのだと感じます。
自分ができること・・
イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコによる福音書 2:17
イエス様は、健康な人をさらに丈夫にするために存在するのではありませんでした。
私のように実は色々抱えてる人、癒しが必要な人のために存在してくれていました。
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そのうちの1つとして、もっと私は「言葉」を使うようにと神様に示されました。
元々読書家ではなく、ライティングスキルや表現力を専門的に学んだ訳でもないのですが、
感じたことや体験したことを思いのまま文字に映すことがただ好きなのです。
そんな私がやるべきだったこと。
それこそが、このブログでした![]()
元々かなりGoing my wayだった自分。やりたいことを気の向くままにやりがちだった私は、
「行動力がある」「自分の人生を生きてる」「自分らしさがあってかっこいい」と言われることもありました。
でもその傍ら、気は強く頑固で、負けず嫌いで勝ち気な所がいっぱい。
実は感情的で浮き沈みは激しいし、内側に抱えてるものもいっぱいでした。
どこか頑なに自分らしさを保っていようと努めていたのでした。
そんな私にも神様は働かれるのです。
まだまだ神様に委ねる・砕かれる必要がある心の領域は沢山です。
変えられる必要のある部分も沢山。
ですが、日本という聖書の語る福音がまだ根付いていない国で、これまでの神様との軌跡を証として書き留めなければと感じました。
おわりに〜言葉と生きる〜
このシリーズも終わりに近づいて来ましたが、ここで私の大好きな聖書箇所を2つ、シェアしたいと思います。
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1つ目;
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ヨハネによる福音書 8:31-32
『真理は私を自由にする』という言葉。イエスキリストこそが真理の源です。
イエス様の言葉に留まるなら、過去や罪、自分で自分を欺く自己欺瞞(ぎまん)から時間とプロセスを経て自由にされて行くのです。
そしてその言葉に生きるかどうか、つまり神様に従う生き方をするかどうかを選ぶ自由も、私たちに与えられています。
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2つ目;
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
ヘブライ人への手紙 4:12
聖書は、数千年前から書かれた単なる書物ではありません。
神様の言葉は生きていて、手術する時に使われるメスのように鋭く、人生を変える力を持っています。
自分がどんな人間なのかについて、善悪の判断基準について、物質的・感情的ではない霊的な生活について、、
沢山のことを個人的な状況の中でタイムリーに教えてくれるのです。
そして、その御言葉や教えられたことを踏まえて、どうするのかは私たちに委ねられています。
神様に従う自由と従わない自由、2つの間に立っているのです。
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これを読んでくれている方にキリスト教を押し付ける意図は全くありません。
ただ、私は神様の言葉に生きたいと決心してから、一度も神様に失望したことはありません。
神様の赦しや愛を知ることで自分自身や自分の価値を認識した時、他人や自分を悪く思う必要はなくなりました。
いつもいつも神様の言葉が私を励まして、慰めて、癒して、導いて、引き上げて、自由にしてくれました。
神様に助けられ続けた8年弱だったのです。
これまで記録した体験そのものが、私に注がれて来た神様の恵みのしるしです。
綴ってきた話の中に見える神様の存在が、「宗教」という2文字を超えて伝わっていたら本望です。
たった8年弱でこんなにも沢山のことがあったのだから、これからもっともっと神様のわざに驚かされて行くのだろうと思います。
人生のあらゆるシーズンを経験する中で、自分の中で隠れていたものや自由にされるべき領域も更に露わに行くと思います。
兎にも角にも、、神様とのジャーニーは、いつも驚きと喜びと愛と希望でいっぱいです。
自分が今後どうなって、何をして行くのか、神様の計画がとても楽しみです![]()
大変なことや悲しいことも沢山あるシーズンも潜り抜けると思いますが、神様の愛が注がれ続ける限り、そこで終わることはありません。
神様は想像もしてなかったような溢れんばかりの祝福を与えてくれる、本当に善いお方なのです。
❁ ❁ ❁
やっぱり、死ぬ時に人生で一番良かったことは何かを聞かれたら、、
私は「神様に出会えたこと」だと答えます。100%間違いなく!![]()
皆さんは、なんて答えますか?
なんて答えたいですか?
神様は、1人1人を誰よりも知って、誰よりも愛しています。
神様から今離れていたとしても、例外の人はいません。
神様が元々意図して造られた姿とは異なっていたとしても、いつでも帰って来るのを待っているのです。
クリスチャンライフ、最高ですよ〜〜![]()
あとがき
「Vol.16 おわりに〜言葉と生きる〜」はここまでです。
これにて、【恵みのしるし】シリーズ完結です。
聖書の膨大な知恵や自分の体験、ジャーナルで示されたことを文章でまとめることは容易ではありませんでした。
わかりづらい所や誤解を与えるような書き方をしていたらすみません。
長きにわたって、私の超個人的な体験談にお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、読んでることをメッセージしてくれたり、貴重なフィードバックをくれた親愛なる皆様、本当に感謝です!
感想やコメントや意見などあれば、お待ちしています![]()
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次回は、またいつもの(?)ブログに戻ると思います。
(ちょこちょこクリスチャン関連のことも呟き続けるとは思いますが)