昨日は神戸の花火大会だった。
今年はインフルエンザが流行したため、沈滞ムードを払拭するために一万発も花火を用意したそうだ。
おかげさまで自宅のマンションの窓から、花火が見えるため、ご飯を食べながら花火を見ていた。
自宅から見えると言っても駅三つぐらい離れているので、間近に見られる迫力はないが、非常に一生懸命に大輪の花を咲かせていた様子は十分楽しめる感じだ。
もう大学を卒業したての頃に一度、真下に見に行ったが、夜空一面に広がる花火の荘厳さというか、花火までの距離感がなく、広がる幻想的な風景になんとなく心が洗われる気持ちになる。
ドンッ!という音がお腹に響いてくるのだ。
昨日は母に、神戸の空襲のような感じかな?と尋ねると、まあ、こんな感じだったなあ~とのんびり答えたため、逆に安心してしまった。神戸も川崎、三菱、神戸製鋼があったため、B29による絨毯爆撃がひどく、焼け野原になったそうだ。
まあ、空襲や空爆の話をすると長くなるので、花火に話を戻すと、
まるで生きているかのように、それぞれの花火が高く高く上がろうとしているみたいだ。
出来るだけ高いところまで飛んでいってそれこそ半径が500mぐらいの大輪の華のようで、
パッと咲いてはパッと消える。中にはきらきらと5秒程度、ダイアモンドダストのような余韻を残すタイプのものもあり、非常に感動した。
しかし、この花火をみていていつも思うのだが、
フィナーレなどは非常に打ちつくすまで、打つと言う乱れ打ち状態になる。
で、感動した後、花火が終了したときに非常に寂しい何ともいえない気持ちになる。
悲しい寂しさではなく、本当に心地のよい
“あ~、終わっちゃった~”という侘び寂びの寂しさだ。
何とも表現しづらいのだが、この終わったあとの、寂しさが心地がいいのだ。
おそらく、日本人のDNAに刻まれた侘び寂びの世界なんだろう。
日食は、それこそ感動した方も多かっただろうが、
身近なところで、この夏の夜空の大輪の華。
なんとなく、一生懸命に他の花火に負けじと高く上がり、パッと咲いてパッと消える、その姿に、
花火のけな気さを見出し、生き物に喩えてしまうこの感覚が、日本人が大事にしなければならない感覚なんだろうなと、つくづく思う。
桜も花火も日本人は大好きだ。
パッと咲いてパッと散るは、間違った使い方をすべきでなく、感動を与えるパッと咲いてパッと散るが重要なのだ。