ニーチェはかつて自著「ツァラトゥストラかく語りき」において永劫回帰をツァアトゥストラに語らせました。そして発狂する前に書かれた最後の著作、「この人をみよ」にて永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」としました。
永劫回帰には様々な哲学的な議論があり、僕自身まだ消化しきれていないところがあります。なので本稿では実存の形式として永劫回帰を映画とともに説明したいと思います。
そこで有効になってくるのがキム・ギドク監督の「春夏秋冬 そして春」です。以下ストーリーを引用します。
(引用開始)
深い山間の湖に浮かぶ小さな庵。穏やかに年月を過ごす幼子と、彼を見守る老僧(オ・ヨンス)が二人で暮らしている。無邪気な子供が成長し、少年から青年、中年そして壮年期へといたる波瀾に富んだ人生の旅程が、水上の庵の美しい季節のなかに描かれる…。万物が息づく春。森のなかで小さな蛙と蛇、そして魚に小石を結びつけるいたずらにふけりながら、天真爛漫 な笑い声をあげる好奇心旺盛な幼子(キム・ジョンホ)。その姿を見守っていた老僧は、彼が寝ているすきに背中に石を背負わせる。目覚めた子供が泣きながら石をはずしてくれと哀願するや、老僧は予言する。「その一匹でも命がなかったら、一生その石が業となってお前を苦しめるだろう」と。子供が成長し17歳になったとき、同い年の少女(ハ・ヨジン)が養生のために山寺にやって来る。少年僧(ソ・ジェギョン)の胸に少女への熱い想いが湧き上がる。老僧もふたりの恋に気づく。少女が立ち去った後、ますます募る恋の執着から逃れられない少年は、山寺から出奔する…。寺を出奔してから十数年ぶりに、男(キム・ヨンミン)は帰って来る。自分を裏切った妻を殺した殺人犯として。男は紅葉のように真っ赤に燃えたぎる自分の怒りと苦しみに堪えきれず、仏像の前で死のうとする。そんな男を無慈悲に打ちすえる老僧。寺の床一面に経文を書いた老僧は、その一つ一つの文字を彫れと、男に命じる。そうやって心を落ち着かせるのだ、と。捜索にきた刑事に連れ去られて男が寺を去ると、自らの死期を悟った老僧は自分の体に火をつけて、ひとりこの世を去る…。刑務所を出所し、すっかり廃墟となった庵を再訪する男(キム・ギドク)。老僧の遺骨を拾い、氷に仏像を彫り、山寺の中で心身を鍛錬しつつ心を空っぽにして、安らぎを得ようと日々を過ごす。ある日、顔をスカーフで覆った名も知らぬ女性が寺を訪れ、赤子を置いたままひとり寺をあとにする。赤子は母の姿を追い求め、氷の湖上を這っていく。男は体に石臼をくくりつけ、降りしきる雪の中、菩薩像をかかえて山を登る。まるで、幼子の頃の自らの小さな罪を償うかのように。。
(引用終了)
この映画は仏教の映画などではなく人生についての映画です。そしてこの映画に僕はキム・ギドクの自らの人生に対する深い肯定を見ます。親に捨てられ無自覚に罪を犯してしまう幼少期(春)から自らの欲望に囚われる少年期(夏)、自身の業に苦しめられる青年期(秋)そして罪を贖うかのように生きる壮年期(冬)。人生は巡る。そしてまた春が来て今度は自身の在り方に師匠である老僧を重ね、同じように捨てられた子どもを育てる。。。
輪廻の輪が巡るかのように見える。しかしながらそれはあくまで「見える」だけであってそこに実態はありません。そもそも人生は未規定です。この映画でも主人公が親に捨てられる理由は不明。老僧に育てられる理由は不明。猫の尻尾で般若経が綴られる理由も不明。老僧が自死する理由も不明。女が子を捨てるのも不明。よくわからない空間が映画で表現されます。ここに自らの人生の所在なさと因果論(つまり輪廻転生!)の説得力のなさをみることができます。
キム・ギドクもまた親に捨てられたような出自の持ち主です。しかしながら映画の中の最後の春で自らの人生を全肯定します。おなじように、人生を繰り返すかのように捨て子(つまり自分自身)を育てる。
そう、ニーチェは永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」とした。その本質はつまり同じ人生を同じように歓び、同じように苦しみ、同じように悲しみ、同じように笑えるのかということだ。
そのように我々は生きているだろうか
春夏秋冬そして春 [DVD]/エスピーオー

¥5,184
Amazon.co.jp
ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)/岩波書店

¥842
Amazon.co.jp
ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)/岩波書店

¥価格不明
Amazon.co.jp
この人を見よ (岩波文庫)/岩波書店

¥713
Amazon.co.jp