週刊朝日でひきこもりクライシスを読んだ。ひきこもりの人の目線で書かれたいいルポルタージュだった。

 ルポライターの人は他人の目線、評価のシャワー、洗礼で傷ついたひきこもりの人の気持ちになっていた。

 私は共感した。職場で「ぶじこれきにんさんはあれも出来ない。これも出来ない。仕事も出来ない。」と上司に言われて傷ついた。俺は仕事も出来ない人間でだめなのか?????

 これは他人の評価の厳しい洗礼にさらされたひきこもりの人たちと、それに共感する想像力のある本当の大人しかわからないが、評価をされた側が傷ついてずたずた。人間不信にもなる。仕事をする意欲すら失う一言を評価という認識の暴力はさせてしまう。評価する側は当然だと思って平気でやる。

 評価された側はそういうジャッジ・決め付けを平気で言う。それが受け止める相手がどう思うかおかまいなし。

 支援者は評価する側なので、このブログを見せても評価の暴力にさらされる側は評価の材料を提供するだけだと思うから、見せない。

 ひきこもりの人たちが評価の暴力にさらされて人間不信で一歩を踏み出す勇気も持てない。女性不信になる気持ちは理解できる。