お正月にバカ殿様のテレビやってましたね★


(ホンマ、何を今更って感じですけど…)


でね、観てた人は分かると思うんやけど、


番組の途中で、台湾人のマジシャンが出てきたよね★


(マジックには本当にビックリしたよ(^o^))


その台湾人のマジシャンが、今や中国のネット上で大批判を浴びてるみたい(^_^;)


というのも、原因はいたってシンプル。


バカ殿様に跪(ひざまづ)いたからなんです(^_^;)


え?って思われた方も多いでしょうね~
僕もそのうちの一人ですから!


実は、これを知った中国人の皆様は、


バカ殿様を天皇と勘違いされたらしく、


「アイツは日本の天皇に跪いたヤツだ!」

だとか、

「中国から締め出せ!」

とかなんか言っているみたい(^_^;)


ん~


バカ殿様を天皇と勘違いするかなぁ……

(いや、まさか本物の天皇と勘違いしたとは思わないけどね。それにどの様にして中国人に伝わったのかも知らないし…)

いずれにせよ、物事を見たまま捉えないでほしいもんだねぇ~

見切り発車、早合点もいいとこ(^_^;)

今日26日のYAHOOニュースです。


中国で犬肉・猫肉の食用禁止へ―動物虐待禁止法案に盛り込む(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100126-00000014-scn-cn


 26日付重慶晩報によると、中国で起草が進められている反虐待動物法案(動物虐待禁止法案)が、犬と猫を食べることを禁止する条文を盛り込むことが分かった。犬・猫肉の販売も禁止される方向だ。

 同法案は、専門家による「意見稿」の作成がほぼ終わったという。法案全体の主旨は動物に不必要に苦痛を与えることの禁止で、野生動物、経済目的の家畜、ペット類に対する虐待禁止や医療や運送にかんする条文も盛り込まれる。

 個人が犬・猫肉を食べたり販売した場合には5000元(26日為替レートで約6万6000円)以下の罰金と15日以下の拘留刑が科せられる。会社組織などの場合、1万-50万元(約1万3200-66万2000円)の罰金。

 専門家グループの首席メンバーとして「意見稿」起草作業に参加した中国社会科学院法律研究所の常紀文教授は「犬・猫肉の食用禁止が、国民に大きな影響をもたらすことはない」との見方を示した。「物質面で十分に豊かになり、犬・猫肉を食べる人は少なくなった」からという。

 カシミヤや羽毛関連の業界からは、「動物虐待禁止法が成立すれば、(動物愛護を理由に中国産を忌避する)貿易上の障害が、ひとつ取り除かれることになる」との声も出ている。

 一方、専門家の「意見稿」作成グループは一般市民から手紙や電子メール、電話による意見、約700件を受け取ったが、多くは同法制定に否定的だった。常教授によると「動物を大切にするより、まず人を大切にしろ」との意見が支配的だったという。(編集担当:如月隼人)

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◆解説◆
 同法制定により犬・猫肉の食用が禁止された場合でも、社会全体に対してどの程度実効性があるかは不明。犬・猫を多く食べるのは中国南部。北部に多い朝鮮族も犬肉を食べる食習慣がある。

 中国では「法治国家の樹立」をかけ声に、1980年代ごろから法律や行政関係のルール整備が盛んに行われてきた。しかし、欧米先進国の例を導入したため、中国の現状・水準では順守が難しいケースも多かった。

 そのような場合、「目に余る」事例だけが厳しい処分・処罰の対象になることが一般的。「ルールの現実的運用」ともいえるが、ルールそのものの権威が上がらず、「お上とよい関係を作れば、お目こぼしにあずかれる」との考えが強まったことで、賄賂(わいろ)が横行する一因にもなった。


犬肉、猫肉ファンの方には悲しいお知らせとなってしまいましたね・・・。


これを見たとき、「えっ」ってなったよ>。<


犬肉美味しいのになぁ・・・食べたら罰金だなんて。。


日本にいるぶんには、犬肉だとか猫肉だとかは食べなくてもいいんだけど、


中国やベトナムに行ったら必ず食べたいモノの一つだっただけに、至極残念です><


まぁ、ベトナムで食べられるから、いいか★



あぁ因みに、猫肉を食べようとは思いません~


なんか猫を飼っている分、かわいそうに思えるもんで^0^;



まぁ、そう言うと犬を飼っている人に失礼ですが。


国がそう決めたんだから仕方ないよね?



 「キリスト教に於いて、「言葉」というものは、まず何よりも先行するもので、何よりもまずモノが先行する内在論的思考様式の仏教と、この超越論的思考様式のキリスト教とは一線を画している。」


 今回はこの思想に基づき、キリスト教における「言葉」の絶対さ、「神」と「言葉」の関係について私自身の率直な考えを述べたいと思う。



 ――初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(『ヨハネによる福音書』の冒頭部分)―― このことから、キリスト教における「言葉」というものは、神とともにあったもので、即ち「言葉」とは「神」なのであるということが分かる。

 

 しかし、私はこの一節に疑問を感じる。それは、「言葉」と「神」があったとして、なぜ「言葉」=「神」という方程式が成り立つのであろうかということである。そこで私は、「言葉」が絶対的な神なのではなく、神の発した「言葉」こそが絶対なのであると考える。つまり、「言葉」は例え誰が発しようとも「言葉」であり、絶対的な存在、偉大な存在とされてきた神が発したからこそ、その「言葉」は絶対的な力を帯びたのである。また、神を越える存在は無いということから、神以外の者が唱えたところで、何も帯びはしないということがわかる。しかし発しているのは紛れも無い「言葉」なのである。こういう訳で「言葉」=「神」という方程式は到底成立しないのである。

 

 「創世記」の天地創造では、神が初めに「光あれ」と言うと「光」が生まれたという。しかし、『ヨハネによる福音書』の冒頭部分は「初めに、言葉があった。――」となっている。「言葉」が先に存在したと唱えているが、この天地創造では「神」が既に存在しており、神が最初に「光あれ」と唱えた時、初めて「言葉」が生まれたのだ。


 この考えは『ヨハネによる福音書』に書かれていることをベースにしているが、『創世記』をベースにしたとしても同じ様な矛盾に直面する。それは、神による「言葉」によって生まれるというのなら、神はどのようにして生まれたのであろうかということである。「神は全てを超越した絶対的な存在であるから、神は言葉自体が誕生する前からそこにあったのだ。」この様に説明付けをしたとしても、先にモノ(この場合では神)が存在したということで、超越論的思考様式ではなく、むしろ仏教の内在論的思考様式が当てはまってしまうのである。何故なら、誰も「神」とは唱えていないからである。

 

 キリスト教に於いて、神は絶対的な存在、偉大な存在である。また、神は目に見えず、男でも女でもなく、親でも子でもない。そもそも特定することは出来ないのである。しかし神は存在する。それが例え偶像だったとしても、そこに存在する以上、名前が付加される。現にキリスト教に於いても神を「神」としている。これは神を特定していることにはならないのだろうか。こういう訳で、私は『詩経』が謳う「天は多くの人を生み出したが、ものがあれば、そこには、それがあるだけの理由もある」という考え方の方が理に適っていると考える。

 

 ナポレオン・ヒルが唱えた「Think and grow rich:思考は現実化する」という言葉があるが、私はこの言葉に感銘を受けた。まず心の中で唱え、次に口に出して唱えていけば現実化するという考え方であるが、この考え方と、神の唱える「言葉」は同じと言えずともどこか似た感じがある。「言葉」が「神」とまではいかずとも、この日常使っている「言葉」には何か不思議な力が働いているのではないかと考える。それこそ目に見えず、何なのかさえも分からない、まさに不特定な力(神の働き)なのかもしれない。




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