社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記 -4ページ目

社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者が日々明け暮れている、社会を大きく変化させるような社会心理論、組織心理論の考察内容を綴ったブログです。

 タイトルの言葉は、高圧的な態度を取っているといつかはしっぺ返しが来るという、いたってシンプルだが普段よく見られる心理を表している。この言葉を実感させられる場面として、以下の2つを挙げてみたい。



 まず、仕事と育児を両立する女性に対して、育児をすることになると仕事は諦めないといけない、諦めるべきだ、という考えが高圧的に取られることがある。そういうことを言われていると、女性としては、なら子供を作るのを止めておきます、という考えにもつながるだろう。そうした考えが支持されてしまうと、出生率が低く抑え込まれるのは自明の話となる。

 ここで、昔の女性はそうじゃなかった、現代の女性はわがままだ、という話を持ち出すのもナンセンスである。女性は家庭にこもっておればよい、という考え方がいつの時代も通じた普遍的なものでないのは明らかだろう。

 また、仕事と育児の両立を容認するとしても、旦那は育児を手伝わないぞという心理を持つことも高圧さの典型である。こうした考えで妻に育児を押し付けてばかりでいると、熟年離婚という事態を招く恐れがある。やはり自滅である。



 前にも書いた、沖縄基地にかかる沖縄への軽視もこの理屈につながるだろう。自国の領土であるにも関わらず離島や辺境地への軽視を続けていると、いつかは国家からの離反を決断されて他国へ編入され、その結果自国の領土が縮小するという致命的な事態を招く…なんてことも起こり得るんじゃないかと。

 「どうせ離反するような度胸はない、軽視を続けてしまえ」なんて見くびりや思い上がりを持つことはやはり危険だと思う。



 もちろん、高圧的な態度を取り続けることの危険性は、局面のところでは認識されているようにも感じる。新国立競技場の建設が白紙に戻ったのも、さすがに民意の反発が危険水域に入ってきたからだと思う。現代の日本では、独裁が行われたり、合わせて民意もおかしな方向へ振れてしまうようなことがないのは、安心できる点だろう。

 とはいっても、時代環境の変化でいつ価値観が逆行してしまうかはわからない。そこへ備えて、「高圧による自滅」この理屈だけは常に頭に入れておきたい。


 最近社会を賑わせているこの2つの話。何気に不条理の極みが現れているものとして…以下概観したい。



 絶歌については、何より商業出版であることがまずい。
 これまでも様々な犯罪者の手記というのは出版されてきたみたいなのだが、それが商業出版であることのまずさが、今回の件であぶりだされた様に思う。
 犯罪者の心の内を見ることに社会的な意義があると判断されるのであれば、監察官や犯罪心理学者が日々の聞き取りを行い、その内容をまとめたものを無償で一般公開するという仕組みにはできないものなのだろうか。それか、話題に上がっているサムの息子法の適用でも構わない。
 とにかく、商業出版であることが話を歪なものにしていて、遺族をいたずらに傷つけることになる点で、強制的な差し止めが可能であっていいと思う。
 それでいて出版社の強行(凶行)がまかり通るのは、どう考えても「不条理」だ。擁護のしようがない。



 そして新国立競技場。この話もひどく失望させられる。
 どう考えても予算が不足しているのに、なぜ従来ではありえないような巨額の建設費が承認されてしまうのか…。こうしたハコモノには、計画段階では計画者の見栄だメンツだなどとの批判が加えられても、完成したらしたで市民は喜ぶものですよ、という側面は確かにあるのだが、今回だけは建設費が巨額過ぎる。そうした側面の効果を打ち消して余りありそうなほどに。。
 これだけの巨額の建設費が強行(これも凶行)して承認されてしまうというのも、どう考えても「不条理」だ。これも擁護のしようがない。



 さらに思うのが、これほどの露骨な不条理は、たぶん自分の生きてきた記憶では聞いた覚えがない気がすること…。 日本の危機的な財政状況や社会的な閉塞感を原因として、段階的に社会に穴が開いてきているために、そこから不条理が噴出してきているのかと…そんなイメージが思い浮かんでしまって末恐ろしい。
 こうした不条理には社会の正常なコントロールが効いていないわけで、そんな話が頻繁に上がるようになれば、民主主義も何もあったものではなくなるだろう。



 まあ、こうした不条理は社会の歴史上で考えると何度かはあったもので、それに付き合いながら社会が進展していくほかない、と考えられるようなものであればいいのだが。。先行きが心配だ。


 自民党の勉強会で、百田尚樹氏らをはじめえらく沖縄を侮蔑する発言が続出していることについて…。きわめて政治的な話なので突っ込んだ話はできないが、一市民として思うことを。


 単純な話、一市民としても観光地としての沖縄を思う際、綺麗な海とか食べ物とか、沖縄に対して楽園的な幻想を抱くばかりであると…この話題を通じてそう気付かされたのだが皆さんはいかがだろうか。

 首里城などの歴史建造物へ関心を寄せることはあっても、戦争に係る歴史について触れることがほとんどないように思う。もしかすると広島や長崎でそうした話は一杯だからなのかもしれないが、沖縄は日本で唯一の地上戦が行われたという意味で、積極的に関心を持つべきだろう。しかし沖縄と言えば海だ食べ物だとばかり…。


 一般の観光客としても、沖縄のそうしたシリアスな部分には触れようとしない姿勢を考えると、本土の人間の意識というのは戦時中から変わっていないんじゃないかと思わされる。

 本土の人間がいつまでもそうした意識でいると、沖縄はいつか中国の属国になって日本へ仕返しをするのではないかとさえ言われている。右翼的な発想はそんなところまで行き着くものかと驚かされるものだが、島しょ部、離島といった地域の事情をここまであっさり切り捨てようと考える時点で、発想が右へ偏ることの恐ろしさを感じさせられる。


 まあ、この自民党の勉強会自体へは処分が与えられたことで、暴走を自制する意識は感じられた。最終的に沖縄基地を県外へ移設するという構想は難しいとしても、沖縄への配慮は慎重に行っていくべきだとは思う。基地問題に反対する沖縄に対して、右翼的に横暴な批判を加えることは慎むべきではないだろうかと。

 女性が社会進出するとなると、その分家事育児を行う時間が狭まることになる。女性だけで仕事をしながら家事育児をこなすことも無理ではないのだろうが、旦那が協力せずに妻に押し付けてばかりだと、後々まで深い恨みが残りそうな気がする。そんな旦那とは子供が独立したらもう一緒に居たくない、ということでの熟年離婚があるのも頷ける。

 なので、そういうことは考えないとすると、やはり誰かが家事育児の埋め合わせをしなければならなくなる。

 今回の内容でも、前回に引き続き「家事」を「育児」に含めて述べることとしたい。

 前回は男性の育児参加について述べたが、自分は女性の社会進出に伴う育児の埋め合わせは、基本的に旦那が行うものだと思っている。実際にそれを実践もしている。

 しかし周りで話を聞く限りでは、妻か旦那の親に手伝ってもらえばいいじゃないか、という話が簡単に出てくる。これってどうなのだろうか。


 もちろん、祖父母が近所に住んでいて、子供や孫のことなら自分の時間を進んで捧げるというような人であれば、協力を仰いだらいいのだろう。

 しかし、祖父母がすぐ近所に住んでいるなら進んで孫の面倒を見てくれたりするだろうが、祖父母がすぐ近所に住むというのも最近はめっきり減った話ではないだろうか。まあ、ある程度の近所、30分から1時間で行ける距離に祖父母が住んでいるのはよくあるだろう。しかし、孫の世話に自分の時間を進んで捧げる人でなければ、頻繁に労力をかけるには苦しい距離となる。

 あるいは、祖父母というとリタイアして老後暮らしをしているイメージがあるものだが、まだ50代などであって普通に仕事をしていることもある。近所に住んでいるかどうかに関わらず、仕事をしているなら空いている日しか孫の世話は頼めない。


 近所に住んでいない、近所に住んでいてもまだ仕事をしている、近所に住んでいて仕事もしていないが、すぐ近所でもないので頻繁には頼めない。祖父母に孫の世話を頼むと一口に言っても、これだけの障壁があるのだ。やはり本質的に、育児は親に手伝ってもらえばよいと簡単に考えるものではないのだろう。

 また、女性が平社員であれば親の協力なしでやっていけたとしても、女性が少しでも出世して役職がつくのなら、育児の理由で休むわけにはいかなくなるのだ、親の協力が必須なのだ、と捉える考え方もある。


 しかし、少しくらい出世したところで、育児によって残業ができなかったり休暇が多少多くなったりして、それほど問題はあるのだろうか。少しの出世で急に責任重大な立場に置かれる、ということは一般的にはないだろうし、残業ができないこと、多少の休暇の多さがあることが問題だとは思えない。旦那の協力を得られるのならその程度を軽減することもできるし、なおさら問題はなくなるはずだ。ここでも親の協力を強迫的に持ち出す必要性はないだろう。


 女性が要職にまで出世する、ということであれば親の協力を得ることも考えるところだが、女性が要職に就ける資質があるなら、もはや旦那が専業主夫をすればよいという選択肢も現れる。旦那に要職へ就く資質がないのなら、それでもいいんじゃないかと思う。やはり、親の協力を必ずしも得ないといけないというわけではない。

 女性のある程度の出世までは育児との両立に職場が寛容になる、旦那も協力してそれを補う、女性が要職にまで出世できる場合は専業主夫の選択肢を考慮する、その二本立てで考えればよいのだ。前者は職場と旦那、後者は旦那の理解を推進することが求められる。

 前回の話と合わせて、結論を述べたい。女性の社会進出による育児の埋め合わせで、親の協力は安易に求められるものではない、だから育児の埋め合わせは基本的に旦那が行うべき。職場としても、育児をする女性のある程度の出世へ寛容になること、またその埋め合わせで育児参加する男性へ不利益を与えないこと、以上の意識を持つようにすべきなのだと思う。

 職場がこうした理解を示さないでいると、育児参加する男性へ不利益が及び、育児の埋め合わせができずに女性の社会進出、出世が遠のくということになる。女性の社会進出ということが旗印に掲げられようとも、それはお題目として終わってしまうのだ。

 近年は、女性の社会進出、女性の登用というものが叫ばれている。女性というだけで家事育児の重荷を負わされ、社会に進出しにくくなっているというのは、生まれながらの身分制のような話なのでやはり改善すべきものだろう。


 ただ、自身の経験も含めて考えるところなのだが、この話と同時には男性の家事育児参加について考えるべきではないだろうか。「イクメン」という言葉も聞くことが多くなったが、なんだか希少種を新奇な目で見ているようで、男性の家事育児参加の概念が浸透しているとは感じにくい。本来は、このような言葉が使われるまでもなく自然に受け入れられるはずのものだろう。

 以下、家事については子供がいるとその負担が増大するものとして、「育児」に含めて一まとめに語りたいと思う。夫婦二人だけなら、大人なので身の回りの話で省略できる部分も多いが、子供はそうはいかないので大いに手間がかかる、という感覚に基づいている。

 男性の育児参加だが、自分はこれを大いに実践している。おそらく奥さんとほぼ均等にこなせている。行政組織勤めなのはあるが、妻、旦那ともにワークライフバランスを満喫できているのではないかと思っている。しかしこの姿勢について周りの人と話が出ると、およそ驚かれる、珍しがられることのほうが多い。

 世間話の範囲で驚かれたりする分なら問題はないのだが、問題となるのは、職場での評価だ。


 「組織文化に応じて人事評価が決まる」というのは組織における鉄則である。革新的な職場ならそうした姿勢の人が正しく人事評価を得られるが、事なかれ主義の職場なら事を荒立てない人が人事評価を得たりする。そういうことであって、先の鉄則は後者のような状況を嘆くときに使われやすい。

 そして、男性が育児参加をそれほどしないもの、というのは日本人の文化であり、これが大半の組織においても組織文化になっているだろう。すると、育児参加する男性は組織文化に反するものとして、往々にして人事評価が下げられる…ということが想定されるのだ。


 自分は子供の保育園のお迎えの時間、帰ってからの育児の時間を確保するため、帰宅はほぼ全て定時である。さらに、子供が熱を出したら仕事を切り上げてお迎えに行く、子供が保育園を休んで家で看る必要があれば奥さんと均等に休暇を取る、といったことをベースに仕事をしている。周りにもその旨を明示している。


 残業はほぼしない、1,2日の休みがちょくちょく生じる、という仕事の仕方なのである。そこへ、男性なら家族の時間は置いておくべきで、残業に励んだり年休もあまり取らずに頑張るものだ、という組織風土があったとしよう。すると、こんな人間は使い物にならないとして、全く人事評価を得られなくなるだろう。下手をすると、組織によっては問題職員と同様の扱いとされ、一切の昇進ができない、暗に退職を迫られるなどの不遇を受けるのかもしれない。


 もちろん、家族や育児の時間を優先する姿勢を取り、それでいて幹部などの要職への道も公平に用意しろ、と求めるのはさすがに厚かましいとは思う。しかし、定時まではまっとうに仕事をしている、休暇も所定の範囲内で収めている、ということであれば、ある程度の人事評価は得られるのが筋ではないだろうか。そこへ人事評価をほとんど与えないとなると、その理由は怪しくなってくる。


 所定の労働時間内、休暇日数内ではまっとうに仕事をしている人間が、人事評価を全く得られないということであれば、それは組織風土による色眼鏡がかかっているのだろう。そうしたところには日本文化の旧態依然さを感じずにはいられない。

 ここまで、あくまで一般論として語ったつもりである。自分が実際に人事評価を得られていないというわけではないつもりだが、個人の主観が入り込んでいるように見えればご容赦願いたい。

 こうした日本文化の旧態依然ぶりは存在するわけだが、しかし冒頭で述べたように、女性の社会進出を叫ぶのであれば、育児参加する男性への不利益が及ばないように図るという、この両者をパッケージとして考えるべきなのだろう。

 もう既に長々と述べているが、女性が社会進出するならば男性の育児参加が必要になるということについては、個人的な意見を次回で述べてみたい。