現代経済を見つめ直す時期だよって話になると、「戦後復興期の生活」を思い浮かべて拒否する人が多いんじゃないかな?


でもさ、それって違うよね?


明治時代中期や大正時代や昭和初期、または江戸時代の暮らしや生活に戻るって考えたらどうだろう?


もう少し、細かく振り返ると。。。


明治元年(1868年)~44年(1911年)、45年(明治&大正元年)


明治初期は、江戸幕府から明治政府への移行期で政府は資金が乏しく厳しい時代でありながら、明治政府の庶民への監視は、相当に厳しく、庶民は、急激な変化に良くも悪くも戸惑いを隠せない時代だったことだろう。


明治中期までは、戦乱と革命と不況の20年。


そして約5年後、日清戦争(明治27年、西暦1894年)、さらに10年後日露戦争(明治37年、1904年)。


更に10年後第一次世界大戦(大正3年、1914年)。


更にその9年後(大正12年、西暦1923年)、関東大震災。


更にその16年後(昭和14年、1939年)には、第二次世界大戦、2年後(昭和16年、1941年)太平洋戦争で戦争に明け暮れ、奇しくも途中、当時も都市であった関東に起こった震災を挟んで日本は敗戦国となる。


明治は、戦勝国だったとはいえ、どの時期も戦争前後、15年続いた大正も戦勝国であったが、初期に第一次世界大戦が終わり、戦後復興期であったその時に首都関東が震災に見舞われた。


これは、戦勝国日本への天罰のようにも見える。あの頃、神風特攻隊などを率いていた日本が、もし、震災もなく第二次世界大戦に勝利していたら、ドイツナチスヒットラー以上の惨い国になっていたかもしれない。。


当時の集団自決という事象を世界と照らしてみても異常であり、それを裏付けるものともいえる。


つまり、明治も大正も、そして第二次大戦、太平洋戦争を含めた昭和初期もどうも人情味溢れる人間らしい生活を送っていたとは思えない。。


それを考えると約250年持続した社会であった江戸時代が、途中争いはあったものの、比較的

平和な時代だったのではないだろうか?


戦後復興期っていうのは極端に異常な時代であってこれまた人類の傲慢が招いたものだよね?


それ以前と今は日本の国土に大差はないはず。


それほど輸入なんてしなくても生きていけたはず。


しかもそれなりに幸せに。


ただ、人の脳裏には苦しかったことの方が残りやすいから、古くても明治、大正、昭和初期、そして

戦後復興期の方が記憶が鮮明かもしれない。


江戸時代というのは、ピンとこないというか、身近に感じる時代とは言えないのかもしれない。


でも、141年前、たった140年前までは江戸時代。


それでも、江戸を生きた、生き証人は、今はいらっしゃらないだろう。


仮に5歳で物心つくとして


90歳以上の方々は、明治とはいわないまでも大正、昭和初期の記憶もある人もいるだろう。


78歳以上の方々は、少なくとも昭和初期を知っていて、

73歳以上の方は、情報が少ないながらも、もしかしたら戦争が近い緊迫感の中にいたのかもしれない。


63~64歳の方々が戦中に生まれ、物心ついた頃にも苦しい時代だっただろう、そして高度成長期時代の主役となる。


少なくとも63歳以上の人々は、その苦しかったそれぞれの時代を実体験として持ち、その記憶が

鮮明なだけに、現代経済がなくなることは、現代経済の根本的な変革をすることは、あの苦しい

時代に逆戻りだ。


というイメージがどうしてもあるのだろう。


この63歳以上の方々に育てられた団塊ジュニアとも呼ばれるおおむね30代以上の世代は、両親から、そして祖父母から苦しい時代を伝え聞き、祖父母や両親は、孫や子どもにそんな辛い経験は絶対にさせたくないという思いが強く、団塊ジュニアにもその思いやりが根付いている。


そして相当な核家族化が進んでいたことだろう。


数世代越えて同居という家族は以降さらに減少していく。


その団塊ジュニアは、少なくとも小学生くらいの頃から、ディズニーランドができたり、24時間営業のファミリーレストランやコンビニエンスストアや大規模なスーパーマーケットに代表されるような現代経済の兆しの中を生きていたはず。


そして団塊ジュニアは、先祖や両親から伝え聞いた惨い、貧しい生活を伝え聞いている上に、経済的に比較的豊かな時代だけを実体験、経験として知っている。


経済的に比較的豊かな時代だけを経験し、先祖や両親の苦しい時代だけを知識として聞いている団塊ジュニアの子どもは、核家族化した社会の中で過程の中で更に経済的に豊かな時代だけを経験している。


仮にその子どもたちが祖父母や団塊ジュニアである両親から伝聞の伝聞で昔のことを伝え聞いたとしても、連想ゲームと似ていてその伝わり方は薄れていく可能性が高い。


まして核家族化していると祖父母と会うことも会話も年を重ねるごとに少なくなっているだろう。


都会は、隣近所との付き合いも希薄になりがちな場所だ。


私は都内や横浜に住んだ事があり、引っ越して「両隣、上下は最低でもご挨拶を」という気持ちがあり、菓子折りを持って伺うと「は?何しに来たんですか?」といわんばかりの人が結構いたりした。


最初に遭遇したのは確か15年くらい前かな。


これは、単身者向けでもファミリー向けでも同じ。


当時40代くらいの方でもそんな感じだったのだから、今なら50代から60代。


この希薄さに無関心さに驚いたことがよくある。


別に私がいかがわしく見えたとか、怪しそうに見えたとかじゃないんですよ?


そこに住む子どもたちは懐いてくれたりしてましたから。


結果、仲良くなるのは、祖父母に近い年の人々だったり、小学生以下の子どもたちだったりする。


これくらい都会は人間関係が希薄なんだよね。


団塊ジュニアやその子どもたちが人間関係が希薄だったり、どう振舞っていいのか迷ったり、人と触れ合うのにどうすればいいのか迷ったり、友達とか親友ってなんだろう?恋愛ってどういうものなのかわからないと考えたり、気持ちを人にうまく表現できなかったり、人間関係をどう築いていくか苦しいほどに悩んだり、ひきこもったり、ヤケになったり、大人になりきれてなかったり、キレやすかったり、チューリップ畑を車で走ってめちゃめちゃにしたり、すぐに刺したり、衝動的に恐ろしい事件を起こしたりするのは、なんで?


団塊ジュニア世代だよね?学校への保護者クレーマーやお金あるのに公立校で給食費払わないとか、逆ギレするとか、運動会が雨天中止になった事で祖父母が他府県からやってきた交通費弁償しろとかワケわからない意味不明な事いう人が多いのは。


そんな団塊ジュニアに育てられた子どもたちが多いとしたら・・・。


こうした団塊ジュニアを含め以降に生まれた若者や子どもたちは、経済的に豊かな時代だけを実体験として持っているので、人情の常でもある極端な変化を嫌う。


嫌わないまでも今のままやむしろもっと向上したいと思ってしまう。


経済のスピードが速過ぎて疲れきって他人どころじゃない、果ては家族どころではないっていう感覚生んだり。


核家族化も一因だろうし、社会で人間関係がどんどん希薄になったからじゃないのかな?


時代の波に呑まれてその原因や兆候に気づかなかった団塊世代が親である時代の家庭環境に大きく起因しているんじゃないかな。


経済界の経営者たちも団塊世代以上の人たちから団塊ジュニアあたりまで受け継がれはじめてるけど、このとめどない猛スピードの経済社会のリーダーたちは、安田講堂事件の主役でもあり、鎮圧されてその後、その意気込みを胸にしまい込んで高度成長期時代に溶け込み、主役になった団塊世代が多いのではないだろうか?


両親含めて団塊世代に恨みはないけど、でも、この経済の過剰なスピードが、核家族を生み出し、いつの間にか人の心を置き去りにしてしまったことは、重要なポイントだと思う。


この事については、現代社会のあらゆる病を治す為にも見つめ直す必要があると思う。


なんで全く、そんな事してしまうんだとか、そんな奴の気が知れないとか、どんな家庭に育ったんだ!といっている団塊の世代が真っ先にその点を見つめ直す時なんじゃないかな。


その反省を踏まえ、団塊ジュニアに反省と同じ轍を踏まない術を今からでも伝えていく必要があるんじゃないのかな。


団塊ジュニアは、祖父母や両親に教えを乞い、団塊の世代の両親からそれを聞かずとも、気づく、理解する努力をする必要があるんじゃないのかな?


団塊ジュニアは、それを子どもたちに伝えていかなくてはいけないんじゃないかな?


いい学校に入れるとか、塾に行かせるとか、お金を儲ける術を教えるとか、それも大事だけど、それ以前に伝えなくてはいけないことがたくさんあるんじゃないかな?


まずは、団塊の世代も団塊ジュニアもその子どもたちも、その事に気づくことが大切なんじゃないかな?


その環境として最適なのが、一番に考えないといけないのが、スローライフ、核家族ではなく数世代を超えた同居である大家族の姿なんじゃないかな?


そうすれば、人間関係も円滑になり、愛や思いやりや慈しみや気づきを持って、世代を超えた接し方を覚え、躾やマナーや品格も受け継がれていくんじゃないのかな?


場合によっては、祖父母の影響で食生活も変わるかもしれない。


そうなれば、生活習慣病も減るかもしれない。


そのためには、家庭内でのある意味年功序列が必要なんじゃないかな?


お互いがお互いを尊敬し、感謝することが必要なんじゃないかな?


自分が今ここにいることを、先祖に感謝、祖父母に感謝、両親に感謝、先人の教えに感謝、子どもに感謝、孫に感謝、子孫たちに感謝することが。


感謝の気持ちが自然に出てくると、「ありがとう」という言葉が自然に出てくる。


「ありがとう」は魔法の言葉で言われた方は、自然ともっと愛を注ぎたくなり、感謝したくなる。


こんな中にギスギスした人間関係なんて存在しない。


愛を持って怒られる事にも感謝できるのだから。


愛を持って叱っても感謝されるのだから。


そうなると地球や他の生命体や自然の営みや生態系や食物連鎖あらゆることに自然と感謝できるのだから。