父は91歳で旅立った。
最後の半年の話はよかった。それ以前の父といえば、頑固さに磨きがかかり、母や家族の言うことは聞かず、周囲に心配と迷惑をかけまくっていた。隣人と衝突し、常識では考えられないほどの大変な問題を起こした(これで本1冊)。また、運動能力も判断能力も著しく低下しているのに、免許返上も頑なに断った。誰かを傷つけたら大変だ。聞く耳を持たないので、僕はわざわざ大阪から広島の実家に戻り、車のカギを隠さざるを得なかった。
それが今年の1月。急に足が弱り、ベッド生活に入ったのだ。自宅に持ち込まれた医療ベッドから動くことはなくなった。かわいそうだが、正直…家族全員ほっとした。父が行動できなければ、トラブルは起きない。母はこのときから肉体的、精神的なストレスから解放された。
それから最後の半年間を、母と私は「父の浄化期間」と呼んでいる。父の世界のすべては、この電動で昇降するベッドの上に限られた。あらゆる人間関係から解き放たれ、トラブルを起こす機会もすべて失った。ほとんどの時間を睡眠につかい、起きている間は、母と話すことしかない。問題がなくなった夫婦は、最後を意識しているせいもあり、お互い優しくなり、父も、ようやく母への感謝と愛情を口にできた。
母や介護士さんたちに従順になっていく姿は、かつての「オレ様」とは別人だ。介護士さんたちが、ベッドの横に簡易風呂を設置し、一生懸命に父を入浴させる姿を見ることがあったが、とても尊く映り、日本の制度に感動した。一方で、無防備にされるがままの父の姿は、少しかわいそうだが、不思議と愛しさが感じられた。
滑稽だったのは、経済的なこと、屋根の修繕、車のメンテなどは、まだ父の”担当領域”だと思っているらしく、家族が小声で相談していると、なぜか超高感度で聞きつけて「バカ!勝手にするな!」と怒鳴ってくる。それでも、母が「誰がバカなの?」と詰め寄ると、バツが悪そうに自分の鼻を指してニヤリとする。
食欲が徐々に細くなってきて、家族は皆「その時」が近いことを感じていた。僕は大阪からできるだけ頻繁に帰省し、息子と娘も連れて行った。父は、息子の婚約者にも「ぜひ会いたい」と言い、彼女も一緒に広島へ。父は「約束はできんが、10月の披露宴には出るつもりだ」と、無理と知りながら言っていた。「100まで生きたら、ご先祖たちは拍手喝采だな」と、本気でそう思っているふりをして笑っていたが、母にだけは「死にたい」と漏らしていたようだ。
幸運なのは、最後まで耳は遠くならず、会話はできた。僕は寝たきりの父に多くのことを尋ね、そして話した。仕事のことも。一番誇りに思ったことは?若いころ、熊本支店の管理を任され、みんなに頼りにされたこと。転出のときには、社宅を出る家族を全社員が見送り、女性社員たちは着物姿で手を振ってくれたそうだ。会社に辛酸をなめさせられる前の輝いていたときだな、これは。僕の会社もうまくいっているよ。軌道に乗って、今年も社員を採用するよ。やりがいがある仕事だよ。実家を発つたびに、これが最後かもしれないと思い、こみ上げるものを父の前から隠した。妻もずっと同じ気持ちでいてくれた。
最期の会話は、広島の自宅にいる父と、携帯のスピーカーフォン越しだった。娘の就職が決まったことを報告すると、父はゆっくり、でもはっきりと「それは良かった。おめでとう」と答えてくれた。「とても幸せにしてるよ。全部、パパのおかげだよ。ありがとう」と僕。父も「ありがとう」と言ってくれた。それが、6月15日「父の日」のこと。
翌日、父は眠りから覚めなかった。早朝、母は気づかず、しばらく、ベッドの隣で本を読んでいたという。
(超不定期に)つづく
10の実話エピソード! お楽しみいただければ、嬉しいです。
1. お葬式(プロローグ) (1-7)
2. ブログを始めるにあたって
3. カミシマ君の誕生日会 (1-9)
4. 昭和のカラーテレビ、わが家に普及せず (1-8)
5. 家族と、いただきます (1-8)
6. 年間行事したり、しなかったり (1-11)
7. ソバオ、家族から離れる (1-22)
8. 父の遺伝子、覚醒か? (1-12)
9. 姉IIの反乱(1-11)
10. 岐路に立つこと、あのころの父(1-11)