聖職者 | とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

山の麓で 英語塾をしています。週末は東の都 東京のおうちで過ごし とりあえず今日を 明日もまた今日を生きようと ゆるりゆるりをモットーに過ごしています。


先日 
以前いっていた福音派の教会に
用事があったのでいってきた

その教会には
約1年半前に
新しい牧師先生が
赴任されたのだが

月日が流れ
教会員も徐々に
新しい牧師先生に慣れ始め
それぞれいいたいことを
言うようになり
牧師先生も大変らしい

牧師先生は
能力のある頭の良い方で
大変さを決して表面に出さず
そつなく淡々と器用に
牧師業をなさっているようだが

この前お会いした時は
少し疲労がお顔に見受けられ

牧師というのは
なかなか大変な仕事だな
とお気の毒に感じてしまった

しかしながら

どの仕事も
お金を得るということは
大変なことであるが...

そういう意味においては
カトリックの神父というのは
最低限な生活保証はされているものの

結婚も財産も預金通帳も
持つことを許されない
いわゆる‘’出家者‘’で

教会の信者の献金によって生活を営み
またその教会の規模によって
謝礼(給料)に差がでる牧師とは
大きな違いがあるわけだが

神父様に毎月入るお金は
お小遣いとして5万円のみ
持ち物はトランク1個に入る分のみ
という簡素さで
まさに清貧の世界なのだという

わたしは
 ‘’献身の招きを
神様から受けたから献身した‘’
という言葉を
そのまま言葉どおりに
あまり信じないのだが

神父様をみていると
神父というのは召命の招きを
ほんとに受けてなければ務まらない
厳しい職業だなと思う

まず神父になるまでの
修業と修練と勉学が
10年以上を要し
その間に何度も何度も
‘’召命‘’を問われるらしい

例えば
イエスズ会の司祭になるまでは
修練期 哲学期 中間期 神学期という
4段階をえなければならないらしいが
それまで約10年という歳月を要する

わたしはこの4段階の最後に
神学期が置かれているのが
実に興味深いと思った

神学を学ぶまえに
厳しい修練を通して
神と自己に徹底的に向き合わさせ
自我を削ぎおとさせ

哲学と考察を学び
人間洞察を深め

神と人に‘’仕える‘’ に
ふさわしい者に鍛え上げ

最後に神学を学び
裏打ちさせる

生きた人間の様々な苦悩や悲哀に
真から寄り添い向きあう為には

神学や聖書学とかやらだけを
頭でっかちにたくさん知っていても

聖職者は決して務まらない
ということなのだろう