若い頃に
洗礼とやらを受けてから
クリスチャンと呼ばれるものになり
教会というところの
礼拝と呼ばれるものに
毎週 日曜日にいったりもしていたが
そういうものに
とんといかなくなって
2年以上過ぎた
しかしながら
縁あって あることをとおして
教会とは まだ関わりをもたして
頂いている
教会にいけばいったで
皆さん 親切に優しくしてくださり
暖かいものをもらえる場所で
あったりもするが
教会というところは
その一方で
妖怪が潜む場所でもある
昨日は 聖書からのお話を
ひさしぶりに
皆なと一緒に聞いてみたが
ため息ばかりでた
心がstressを
受けたからだ
ふと思うのだ
なぜ 教会というところは
なにをお話するにも
聖書を使うのだろうか
わたしは 聖書を使って
お話されると
著しく心に拒否反応がでる
具合が悪かった時には
もうそれだけで
もっと具合が悪くなってしまった
わたしが
礼拝にいかない一番の理由は
聖書を使った説教を
聞きたくないからである
牧師先生に
‘’ 皆なで祈りますけれど
一緒に祈りませんか?‘’
とも言われたが
‘’ 祈りを言語化するのを
今はあえて避けてるので ‘’
とお断りした
わたしは
言葉にして祈れない
いや 祈りを言語化して
祈れなくなってしまった
ひとりでもできない祈りを
皆なと一緒になんて
なにをおっしゃっているのですか?だ
わたしにとって
祈りとは うめきなのだ
そのうめきを
たとえ言語化できたとしても
深い信頼関係の中にない人達の中で
それをするのは
心をにじり潰すようなものだ
牧師先生は
‘’ 神様に期待して‘’という言葉を
言われたが
その言葉を聞きながら
わたしは 神様に
なにも期待してないなっと思った
‘’ 期待 ‘’ というと
なにか意思の力が必要な響きになり
心が疲れてしまう
わたしが神様に寄せる思いは
‘’ 望み ‘’だ
‘’ あぁ 神様...‘’と
うめきにしかならない
心の中でうめくそのうめきに
言葉にできない思いのすべてが
凝縮されている
そのうめきさえ
祈りとして聞き入れられ
自分自身でさえ
気づいていないだろう願いも
きっと神様に届いており
神様にすべて受けとめらているという
‘’ 望み ‘’なのだ
わたしが神様を信じているのではなく
憐れみによって
信じさせてもらっているのであり
必要なのは 自ら持つ信仰ではなく
神様との心の出会いであり
その体験なのだとわたしは思う
その不思議な体験をとおして
憐れみによって
神様に引き寄せられ
かろうじて
信じさせてもらっているのだ
わたしは そこに
神様の愛を感じ
とても柔らかな喜びを感じる