2024年6月9日 過疎地に集結

 

 久しぶりの更新だ。今回はボランティア終了時に現地の活動拠点の方が「皆さんの地域に帰ったら、今の能登の状況を広めてください」と話していたので、詳しく報告しようと書いてみることにした。

 

 6月6,7日の2日間、能登・珠洲市災害ボランティアに行ってきた。高速道路の災害ボランティア無料化を利用して車で行ったため、計5日間という日程になった。高速無料は有難いが、燃料費、時間、運転疲労を考えると往復2400kmの道のりは決して有効とはいえないのかもしれない。それは県のボランティア要請枠に限度があるため2日間しか取れなかったことも影響している。ただ、ボランティアそのものは意義あるものだと今回も思った。

 

 往路はまだ元気で頑張って運転したので石川県入りは早い時間となった。そのため、もともと無料高速の「のと里山海道」を通らずに、下道を巡って能登町まで行こうと考え、まずは七尾市を目指した。

 途中、道の駅が開いているところもあったので、昼食は海の前にある「能登食祭市場」という何とも食欲をそそる名前の道の駅まで我慢することにした。ところが着いてみると何だか様子が怪しい。平日だからかもしれないがひっそりしている感じだ。建物が被害を受けている感じはあまりないと思って駐車場から建物へ行ってみると張り紙があった。

 「物販は土、日、祝祭日のみ」と。震災の影響だろう、仕方ない、と二階のレストラン街へ行ってみた。すると、ここも電気が消えてオープンしているのはラーメン店とパスタ店の2軒のみだった。海鮮を期待していたのであきらめた。周辺をよくよく見ると、被害が見えてきた。建物周辺のコンクリートはめくり上がり波打っている。ついでにその先の港の公園へ行ってみると、ここも板敷の歩道は破壊されていた。津波は来ていないのかもしれないが、地震による被害であろう。ひどい状況を少しずつ知ることになる。

 弁当を売っている店はないかと市街地へ行ってみるとJAのスーパーが開いていて、弁当や夜ごはん、翌日ボランティア活動時の昼食などを購入することができた。 

 

七尾市道の駅裏の板敷の歩道。地震で壊された所がそのままになっている

 

 この後、風呂に入ろうと、中能登の道の駅で聞いていた能登島にある「ひょっこり温泉島の湯」に行くことにした。震災によってあちこちの温泉が閉鎖しているが、この温泉は直後から開放して営業しているらしい。能登島は大きな橋を渡って行く小さな島だ。ニュースではこの島の影響を見たことがあり、自分がここに来るとは思わなかった。2つある橋のうち一つは通行できないらしい。最近も大きな地震があり、この橋が壊れたら帰れないという思いが一瞬頭をよぎった。

 温泉はとても気持ち良かった。穏やかで静かな内湾に面したとてもよい所だ。ゆっくり訪れたいところである。

 
 

ひょっこり温泉 島の湯
 
 さて、風呂も入ったし、今日からのベースとなる能登空港隣の日本航空高校を目指そう。
 七尾市から下道でと思ったが、ナビには通行止めの速報は入らないので標識を見ながら目指すと、いつのまにか「のと里山海道」を進んでいた。道はどんどん能登半島の北部深くへ進んでいる。半島の中央の山間部にある道の為に、周辺部に集落はあまり見られない。しかし、北へ進むにつれて被害の大きさが伝わってきた。それは道路がひどい状況になってきた。亀裂とその応急処理により段差が至る所にできていてスピードが出せないのである。段差を見落とすと車が激しくバウンドして車内の荷物が跳ね返る有様だ。
 進んでいてやっと気が付いた。この道は一方通行になっている。つまり、北部へ進む方向だけが通行できるように復旧工事されているということだ。これは復路は難儀するぞと思った。
 
 14時、のと里山空港に着いた。空港は辛うじてオープンしているようだが、駐車場正面の門のような大きな石垣は傾いたままになっている。
 車は空港の駐車場に停めて、隣にある日本航空高校に入った。今年のセンバツで出場したあの高校だ。野球部とサッカー部は元気に練習している。人工芝の立派なグランドだ。
 我々ボランティアは一階で受付をして、この管理棟の4階にある生徒の教室にテントがたくさん設営されており、そこで寝泊まりすることになる。だが、水道、トイレは使えず、トイレはまた地上まで下りてきて、200メート先にあるグランド脇の仮説トイレを使用するのだ。
 

天井は手を伸ばしても届かない広い空間の一人用テントにベッド型コットもある
 
 食事は教室テントと同じ階にある談話室を利用できる。各自でポットのお湯を利用しながら食事する感じだ。行った時には、談話室に他の自治体(熊本など)からの差し入れとしてジフィーズのご飯やコーヒー、紅茶などがあった。また、有難かったのは、高校の寮の食堂と風呂を利用できることだ。事前情報ではそれはなかったので嬉しいサプライズだった。このことに関して、事前に知らせないのは当然だと思われる。食材も若干は差し入れが有りますとか、食堂、風呂も利用できますなどと、事前に知らせていたら、それを期待して何も準備せずに来るボランティアがいると困るからだろう。我々はあくまでも自分の意思で参加するボランティアであって、食事や風呂そして本来寝泊まりさえ自己責任で処理しないといけないと思っている。管理者の好意で提供された施設については現地で知らせる程度でよいと思う。(高速無料化にお世話になっているが・・・)
 
 
 6月6日(木)7時40分、空港駐車場をボランティアバスが出発した。私は珠洲市の災害ボランティアに事前申し込みをしていたのでバスで50分の道のりとなった。バスが進むにつれて、被害の深刻さがよく見えるようになった。家は倒壊せずによかったと思われる家がたくさんあったが、よくよく見ると中は壊滅的な被害を受けていて人は済んでいないことが分かって愕然となった。市街地が近づくと、倒壊した家も見えるようになった。
 
 珠洲市のボランティアセンターで受付をし、説明とチーム編成が行われた。それを説明している社教職員も全国からの応援の人だ。慣れない土地で活動している姿は仕事とはいえ、ご苦労が多いことだろうと察する。
 1日目は12名のグループに入り、海のすぐそばの家の片づけになった。2トントラック1台と軽トラック2台、そして私が運転することになった社教のハイエース1台である。ハイエースでトラック以外の人員を輸送した。
 
 現地一帯は被害の状況が凄まじく、地震で倒壊した家々津波がさらに破壊したようすが分かる地区だった。道路や橋は段差や亀裂が走り、家々は破壊され、車もつぶれた二階の家に突き刺さっている状況だ。
 依頼のあった家は漁業の倉庫だったのか、それとも依頼者宅に併設されてた屋だったのか分からないくらい基礎もなく破壊されていた。また、地域伝統の祭りである「キリコ」という大型の飾りの一部もあった。そこは昨日から片付け活動が始められていたようで、半分は片付けられているが、まだまだ道具類が散乱していた。
 
 我々の作業は、長さ50メートルはあろうかという漁網家の残骸の始末が中心だ。漁網はもともと畳んであったのか、津波で敷地の端の方や隣家の敷地にまで押し流され、泥と油にまみれて、家の柱の下敷きになっているものがほとんどだった。網は全部で10くらいはあったと思われる。水分を含んで泥と油にまみれた網の端の方を引っ張り出して、10人がかりでそれをどんどん引き出していき、最終的にトラック荷台に積み込むという重労働だ。 
 気温が上昇しだんだん暑くなってくる中での作業は体調を崩さないように休憩をこまめにいれながら進めた。実際に同じメンバーの一人の方は、昨日からの継続作業で、昨日あやうく熱中症で倒れそうだったということだった。安全第一がボランティアのモットーだ。
 昼食を挟んだ一日の作業で、依頼のあった家の漁網と家の残骸の片づけが終了してよかった。
 

海沿いの地区は地震と津波で壊滅的だ
 

草地があるのではなく、家の基礎しか残っていないのだ。草の背丈が半年を物語っている
 

ここは、あの見附島の目の前だった。見附島も無残に破壊されている
 

依頼者の敷地内はなんとか片付いたが隣はまだ破壊されたままだ
 

のと里山空港周辺の花は美しく咲いている。大きいのはハナミズキだろうか
 
 
 2日目は農村部の住宅の片づけだった。廃棄するものを分別しトラックで処分に行くという作業になった。あらゆるものがゴミとなり、それを分別する作業で悪臭との闘いとなった。様々な被災の形に出会う。
 
 一日の作業を終えてボランティアセンターに戻ると、各方面からのボランティアのチームがそれぞれ帰ってきてセンターは賑わう。地域に還元する物販も行われており、今回、観光はまったくできないので、珠洲のよい土産が買えて良かった。
 
 能登半島の末端にある珠洲市は、もともと過疎が進んでいるところだ。今回の災害で2000人以上が町を離れたとも聞いた。それだけに復興は厳しい道のりになるだろう。全国から熱いボランティアが集結しているが、まだまだ支援が必要となる。
 珠洲市だけでなく能登半島にはまだまだ被災した地域が多く、それでもボランティアが入れない規制がかかっている所が多い。地形的な問題だと言われるが、もっと政治ができることはあるのではないかと考えずにはいられない。被災地は石川県だけでなく、新潟、富山、福井など他県でも多くの方が被災している。チームの一人が言っていたが「ボランティアの沼」に入った人たちが黙々と動くのみなのだろう。だが社教の全国ネットワークも忘れてはいけない。さらに、NPOもそれぞれ頑張っている。
 
 日本航空高校の生徒はどうなっているのか気になった。分かったのは今後生徒は系列校(山梨)に移るということらしい。それで、今後しばらくはこの高校がこの地域の県のボランティアベースキャンプとなるようだ。ただ、4階からトイレまでは遠い。恐れていたことが起こった。2日目、夜中2時に目が覚めてしまった。仕方なくトボトボと遠いトイレまで向かった。次回あるなら、車中泊を選択するか・・・・?
 
珠洲も応援します
 
 
 災害支援のための高速無料化の利用では条件があるため観光目的では利用できないようになっている。予め経路を申請するので、行ってみたいところはあってもそれはできないようになっている。当たり前ではあるが。
 ただ、金沢のICに乗るまでは時間の許す範囲で行けそうだったので、ICに向かう途中の海岸道路を走ってみた。いわゆる「千里浜なぎさドライブウエイ」だ。何十年も前に砂浜の道が公に車が走る道として利用されている衝撃的事実を知って以来の「いつかは行ってみたい所」だった。それが災害ボランティアで来ることになろうとは思わなかったが、綺麗な夕日を見ることができて良かった。水平線に薄い雲がかかり、海面に落ちる太陽を見られなかったので、いつか観光で来ることがあったら達磨夕日をここで見てみたい。
 

千里浜なぎさドライブウエイ
 

日本海に沈む夕日

 

 能登の被害は甚大で、特徴的なのは被災から半年近く経ってもまったく手が付けれれていない場所が沢山あるということだ。過去の災害から見てもこれはあまりにも酷すぎる。被災者は、同じ国に住んでいながら甚大な災害から助けてもらえないことの虚しさを感じておられることだろう。せめてボランティアが少しでも手を差し伸べたいと思う。

 

 有難い高速無料化ではあるが、時間と疲労、それに燃料費は痛い。それで、今回の長距離移動の費用と疲労を天秤にかけたとき、現地で小耳にはさんだ羽田-能登空港の利用も一つの選択肢としてあると思った。というのも、燃料費と時間、運転疲労のことを考えると、宮崎-羽田-能登の航空機利用は費用として自家用車利用とそれほど変わらないのが分かったからだ。東京から飛行機利用でボランティアに参加した方も実際にいた。以前テレビの番組でスーパーボランティアの尾鼻さんが出ておられ、「毎日の生活を倹約してお金をためてボランティアに行くときの費用にしている」と話されていた。尾鼻さんの話から、私もできるだけ倹約して今後またボランティアに遠征する際の費用を貯めるという方向性も大事だなと思った。今後の検討課題だろう。

 

 と思ったものの、尾鼻さんのこれまでの活動や信条を読んだとき、まだまだ自分は甘いなあと感じる。尾鼻さんは大分から東北まで車中泊でボランティアに駆けつける年配の方であり、まだ若い自分が頑張らなくてどうする!と喝を入れる自分もいる。

 まだまだボランティアの旅は続くのか・・・。