本日の風呂は非常に温い。
温い(ぬるい)と温かい(あたたかい)って、同じ漢字なのに語感がこうも違うだなんて不公平ですよね。兄弟が平等な扱いを受けない事の様に不公平だ。お下がりとかお下がりとか、それにお下がりとか。
来る将来、兄が孝行するケースが多い事を考えると、等しく等価、平等であると言えるのかも知れないですが。はい、自由奔放な弟分でございます。
ある程度の枠があってこその自由だと、北野武氏は言うけれど、全くもってその通り。自由と言う語感もまた、状況によっては宛のない迷走とも取れますし、無法とも無謀とも取れまして。似たような、もしくは同じものが状況によって全く別のものとなるのは世の常でございます。
ございますとか丁寧語を用いるのは単に皮肉でしかなく、これもまたしかり文字通りの意味ではなかったり。そして今日の温い風呂もまた、そう言う事であったりします。
単に風呂に湯を張った後、読み出した本が面白くて読み耽っていただけですが。
私の今日の出来事など、とるに足らないし誰得なんだと言わざるを得ないから、箇条書きで呟いてれば良いですし、もう(略)で良いのです。
ただ自身の有益性に関して言えば、考察の場と言えましょう。またはその練習と言いますか。そうやって頭の体操でもしてないと、この悪い頭はすぐに劣化し鈍ってしまうので、こうやって鍛えているとも言えます。
筋トレやダイエットとか、そんな類いと同義なんだろうなと今思いました(笑)
だから直ぐに頓挫すると思いますし、さぼりもしますしね。多分どうだろうか、誰かに監視でもされなければ、人間なかなか頑張れない生き物ではなかろうか?
逆に言えばダイエットとか筋トレとかは、誰かと共闘でもすれば長続きするのではないのか?そんな風に思います。自己だけを見つめて完遂なんて出来るような人は、一握りでしょう。
ようは、誰かに観測されてこそ、それは存在しているし、観測されなければ存在していないと同義である。と、そのような事が今日のぬるま湯の原因である、憑物語に書いてありました。(残りのシリーズはよっ)
深海の生物やら、ニュートリノやらiPS細胞とやらと等しく、誰かに観測されてなければ、人の行為もまた、存在出来ないと思うのです。絶対零度と今では容易く文字変換できますが、絶対零度より低温が観測された以上、もうこの言葉が存在出来るかどうか?
注目は絶対零度より低温のそれであり、その低温に名前を付けるとしたとしよう。絶対と言っていたものが絶対ではなくなって、さらに絶対と言う言葉を選ぶとは思えないですからね。キグナスとかその辺りに落ち着くのではないでしょうか(願望)
ともあれ、トレーニングツールとしてのブログではありますが、考察すると言う事、考えると言う事は重要だと思うのです。思考がソフトであり、そして行動がハードと定義しよう。
このトレーニング方はソフトとハードの両面を担っているから、今後も是非とも続けたいと思います。そしてもし続かなかった場合は、いるはずもない読者のせいだと主張しておきます(笑)
と言う温いと言うか寒い落ち。
それでは、本日もお疲れさま。