14:46〜追悼の梵鐘、萬通寺で。鐘をつき、東に向かって合掌。南無阿弥陀仏。
2011年3月11日(金)12年前のあの日のこと、コピペによるリブログです。一昨年の10年目に続き2度目のリブログです。
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その時私は自宅の2階にいた。
14時46分、突然の激しい揺れにびっくりした。手すりにつかまり、階段を転がるように駆け下りた。外に出て、玄関前に停めているプリウスを移動させようと乗り込む。なんとマンガのようにプリウスが上下に大きくバウンドする。
震える手で始動ボタンを押し、屋根から瓦が落ちて来ても安全な場所にプリウスを移動した。カーナビ画面(テレビ)では数メーター(この時点ではまだ数メーター)の大津波警報が出されていた。
強い揺れはなかなか収まらない。プリウスから外に出て周りを見回した。電柱も電線も大きく波打つ。瓦屋根から何かが落ちてきた。地面も波打ち、家もガタガタと強い衝撃波でも受けたように激しく揺れ動く。初めて経験するこれほど強い揺れ、そして長い、長い大地震だった。
数分後、やっと揺れが収まった。と思うとすぐに余震と思われる強い揺れが襲う。それでも本震以上のものはもう来ないだろう。恐る恐る2階に上がってみると、テレビが台から転げ落ち、反射ストーブの上のヤカンも落ち、畳が水浸しだった。本棚から本やCD、DVDなどが落ち散乱している。
停電でテレビは映らない。小型CDラジカセをかけると、すぐに緊急放送、アラームが鳴り響き、場所と予想される震度がアナウンスされる。家の中にいては危険だ。やはり外に出ていよう。
プリウスでナビのテレビを見ていた。やがて、信じられない映像が映し出される。大津波が街を襲う映像だった。ここはどこだ。画面を注視し、音声に耳を澄ませる。なんと、ふるさと山田町の映像だった。大津波により次々に家が流される映像だった。大変なことが起きている。実家は大丈夫か、母親や弟たちは。
当時私は上郷町第6区の区長兼自治会長。そうだ、こうしてはいられない。異常事態であり、行政区内の安否確認が必要だ。車で町内を巡回しよう。屋根瓦が崩れ落ちている家があるが、倒壊や火事などは起こっていない。途中で民生委員の〇〇さんに会い、プリウスに乗ってもらい一緒に町内を巡回する。幸い家屋に倒壊など、大きな被害は出ていないようだ。
地区センターに行く。報告と情報収集。市の職員や消防団員も集まってきた。すぐに避難所設営だ。体育館、大広間、和室などを避難所として開放した。発電機に燃料を入れ、夜に備える。
情報が錯綜する。旧仙人峠は通行止め、新仙人峠道路の釜石側の橋が崩落したらしい。これは後で誤報だと分かった。トンネルを抜けた所にある甲子橋に異常が発生し、通行止めだという。
JR釜石線の列車が上郷町内で止まり、乗客が地区センター目指して歩いているという情報も。
地区センター内がごったがえしてきた。宮古の現場から釜石の会社に帰るという会社員の人たちも集まってきた。宮古市内は通れないと思い、立丸峠を越えて遠野に入ってきたが、釜石までの国道283号線はは通行止めだった。車のガソリンも少ないと言っていた。釜石まで持つかどうか。
その中に小中学校で同級生だったS木がいた。思いがけない再会だ。「異常な状況で出会う男女は長続きしない」という台詞を思い出した。映画「スピード」でサンドラ・ブロックが口にしたセリフだ。こんなタイミングでの再会に複雑な気持ちだ。
どんどん人が集まってきたが、暖房が足りない。自宅に戻り少し寝よう。深夜2時過ぎに帰宅し、反射式ストーブで暖を取る。とりあえずラジカセとiPhone、懐中電灯、非常持ち出しの貴重品、食料などを枕元に置き、炬燵に横になる。次々に鳴り響く緊急アラームに寝ていられない。激しい余震がひっきりなしに続く。
妻は職場から帰ってこない。法事のために今日帰って来るはずだった、東京と仙台にいる娘たちとも連絡はつかない。新花巻駅に迎えに行く予定だったのに、東京にいる方は新幹線に乗ったのか。携帯も繋がらない。山田の実家はどうなっている。みんな無事か。眠られない、不安な夜が過ぎていく。