自未得度先度他(じみとくどせんどた)  2019.9


自未得度先度他(じみとくどせんどた)は、道元禅師が正法眼蔵の中で述べていらっしゃる言葉だ。

自分は彼岸にいかなくても他の人をまずは彼岸に渡してあげなさい。

自分が悟ってもいないのに、他人を彼岸に渡すことはできなかもしれないと思うかもしれないが、その思いを起こすことが大切なのだという。

また自分はそろそろ悟って彼岸にも行けるようにもなっても、自分は彼岸には行かず、他人を彼岸に渡してあげることが大切なのであるともおっしゃっている。

このような自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を起こすこと、それが悟りそのものであるともおっしゃっている。

自分よりも人々の幸せを願うことができるようになれば、それは悟りの世界でもあり、すばらしいことなのである。

 

 優しさとは優越感だと言い切った先生がいらしたが、多くの優しさは優越感とか、ゆとりがあってのことだと思う。

でも、そうではない優しさもある。

本当に心根が優しくて、困っている人がいれば助けずにはおれない人がいる。

助けることによって、自分がぼろぼろになっても、助けずにはおれない人がいるものだ。

 

 私は、15年ほどまえ、神田川沿いを1時間歩いて通勤していたことがある。

神田川と中央線が交差するところに小さな陸橋があったのだが、その下にダンボールを寝床にしたホームレスがいた。

妙に顔が色白く、澄んだ目をしていたので、ただものではないと思っていたのだが、案の定、見るからにヤクザとわかる男が「オジキ、頼むからアパートかマンションに住んでくれ。お金は何とかする・・・」

どうやら、最近刑務所を出所して、以前の組に帰ることもせず、ホームレスの生活を送っているようであった。

ある日そんなことは知らない、近所のおばちゃんが、「あんた、ごはん食べているの。大丈夫・・・」とダンボールの中の男に声をかけているのである。

そんなに裕福には見えない、ただのおばちゃんが、本当に心配して男に声をかけているのである。私は、その声を聞きながら通りすぎたのだが、人間の確かな優しさに触れたような心温まる思いだった。

こんなおばちゃんがいる限りは、人間も捨てたものではない。

 

 自分と他人の区別もなく、ごく自然に他人の幸せを願えるようになれば、それはもう悟りなのだと思う。

自分がぼろぼろになってまで、他人の面倒は見れないと思うかもしれないが、本当に、自未得度先度他(じみとくどせんどた)の気持ちなれたら、その人自身も幸せだと思う。

決してぼろぼろになったりはしない。

その人のまわりに素敵な世界が生まれるに違いない。

決して、ぼろぼろにはならない。

きずつくのは、やはり、自分というものに執着があるからなのだと思う。

自分と他人の区別がつかなくなり、みんなの幸せを願えるようになれば、本人も周囲の人も、それは浄土に住むような幸せということではないだろうか。

 

  そのような人が、一人二人と増えていかなければならない。


 
  今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。