2011年の元旦に見えた絆 | Smile the First 店長日記

年末年始ブログ更新をお休みしていたので、ここ数日は時間を遡っての話題になっておりますが、皆様、大晦日はどう過ごされましたか? 


私は33年ぶりに、実両親と3人、茨城の実家で静かに大晦日を過ごしていました。(嫁にでてから33年も経ったわけではありませんよ~ガーン 9歳違いの妹が生まれて途中から4人家族になったからですよ~)


私ひとり実家で過ごしたわけは、、、夫婦喧嘩?いえいえ。


それは、母が、新潟にいる祖母の見舞いにいけないかと聞いてきたことが発端でした。


祖母は新潟で生まれ育ち、旅行することもめったになく、私の結婚式で関東にでてきてくれたときには皆が驚いたくらい、新潟から出るのを億劫がるひとです。


92歳になりました。


料理はなにをつくっても絶品。孫にせがまれ、どんなに大きな器でも、味も見た目も完璧な茶碗蒸しを作ったと母が自慢します。祖母のつくる「のっぺい汁」はどの料亭の味にも引けをとらない美味しさ。どんなシンプルな料理でも、ひとつ凛とした筋の通った美味しさ。生け花は達人の腕前で先生が舌を巻いたと聞いています。どんなに複雑で難易度の高い編み物も機械のような精確さでらくらくと編み上げたと母から何度も思い出話を聞かされてきました。いったい私は本当に祖母の血をひいているのかと思うほど祖母は家事の達人です。


すっかり体が弱り、この数年で幾度かの入退院を経て、今回は脳梗塞での入院。


子供のころ、夏休み、冬休み、遠路はるばる新潟に行くと、いつでも祖母は「とーもちゃーん、よう来たねっかね~」と独特の新潟なまりの高い声で出迎えてくれました。手料理のお惣菜をすすめながら「なじらね?(どうかしらね)」と新潟弁で聞く声も懐かしく思い出します。あるとき買い物かごをさげて町に買い出しにいく祖母のあとをこっそり追うと、歩く速さについていけなかったことも懐かしく思い出します。


いつもとどこか違う、寛いだ母の声と、大好きな祖母の声、冗談を言いあって笑う伯父や叔母と父の声。にぎやかに宴をかこむ大人たちのそばで、妹やいとこたちと、なじみのおもちゃ箱をひっぱりだしてくるときの幸福感。祖母のいる新潟の家は、子供だった私にとって、この世のパラダイスでした。その中心に小柄でよく動く祖母の姿がありました。


病院の一室で、18年ぶりにあう祖母は、とても小さくなって、ベッドの上にしずかにすわっていました。両親と伯父に押し出されるように祖母の前に立った私は、「おばあちゃん。ともこです。」と言うのがやっとで、あとからあとから涙がこぼれるのをとめることができませんでした。やっと会えたことがただただ嬉しかったのと、会えた場所が病院であるということ、あれこれたくさんの感情があふれ出てしまったのです。


1泊の短い訪問で、母と祖母の「母娘の絆」、伯父と祖母の「母と息子の絆」、母たちの「兄妹の絆」、いろんな絆を目の当たりにしました。母と父の空気のような間(ま)にも、40年以上寄り添ってきた夫婦の絆を見ました。


ありふれたものだけれど、血のつながりのあるスペシャルなひとたちの絆は、とても重くて、お互いを許すことを知っている温かいものでした。


どこまでも真っ白い雪と山に囲まれた関越道と、ハンドルを握る父の白い後頭部も残像のように心に残っています。


すべすべとして、小さく、透き通るように白く、とても温かい祖母の手が、母の手とそっくりだと気づきました。別れ際に「元気でね、元気でね」と小さな声で何度も繰り返しながら、母と私の手を、交互にさすってくれました。


私は祖母の孫に生まれたことを誇りに思います。祖母にも同じように思ってもらえるよう、日々精進しよう、と思います。