ばあちゃんが亡くなった。
入院してあっというま。2週間くらい。
それだって、ちょっと元気過ぎで、暴れて点滴自分で引っこ抜いてる!なんて聞いてたから、すぐ退院するかななんて思ってたら、危ないと聞かされてたった30分くらいで亡くなった。
会っておけば良かった。
2011年、じいちゃんが亡くなり
まだ誰も入ってないお墓の中に、じいちゃんのお骨を入れる時に
『ひとりで寂しいな、じいちゃん。わたしももうすぐ行くからね』という様な事を言いながらお墓を撫でていて、
冗談でも切なかった。
小さい頃『あんたは外孫だから、色々はしてあげられないんだよ』という事を良く言われてて、
どういう意味があるのか、孫になんの違いがあるのか?と考えていたけど、大人になると良くわかる。
ばあちゃんは、同居する家族、とくにお嫁さん(私から見るとおばちゃん)に対して世話してもらってるんだから感謝してるんだよと良く言ってた。
良い事ばかりではなかったとは思うけど、感謝してるんだと口にすることで、そう思おうと言う気持ちにもなってたのではないかな。で、そうやって教えてくれてたんではないかな。
ばあちゃんは、苦労や愚痴はまったく言わない人だったと母は言う。
私もそれらしい言葉は聞いたことない。
人がどう思うかという事にとっても気を使ってて、そういうことについて諭される事がよくあったように思う。
じいちゃんの時もそうだったけれど、
ばあちゃんも、小さくなっていくのを見るのが、こわかった。
年を取るってそういう事なのにね
ばあちゃんの手を引いて歩くという事も、胸がつぶれそうな気持ちになる。
元々同居してないので、久々に会った時に歳をとってく姿を見て、別れが近づいてると感じるのが怖かったんだと思う。
でももっと会っておけば良かったとすごく思うんだよ。色々しゃべったり、嬉しがらせてあげることがもっとできたんじゃないかなって。
そう思っちゃうんだから、素直になってた方がいい。私の場合はね。
でももういない。
同居してる友達に言わせると、いらぬお節介されてウンザリ!うるさい!だそうだけど、
私ももっと若い時はそんな風に思う事もあったし、すげぇいじわるばあさんとか、同居してたらウザいわーとか思うのかもだけど、
でもやっぱりそんな風に自分がばあちゃんになった時思われたら寂しいよ。
心配してるからとかわかっててもお節介に感じちゃうけど、
寂しいんだよと思ったら、少しは優しくしてほしいんだけどな~なんてな。
いつからか、ばあちゃんの手を引いて歩く事が増えて、
あーばあちゃんの手ってこんなに小さかったかな?と感じる事があった。
どんな気持ちだったかな、孫の手に引かれて歩くの。
じいちゃんが死んだ時、じいちゃんの隣に座って泣いてたばあちゃん。
すぐ行くからねとじいちゃんに言ったばあちゃん。もう会えたかしら。
私は涙がいっぱい出るんだけど、なんだか泣きながら冷静なもう一人が頭の片隅にいる。
泣いてる人を見て泣くのがうつってきたり、
泣いてる自分を見られていると思ってまた泣けてきたり、
すごく悲しいけど、なんだか嘘泣きしてるんじゃないのかな、この涙はほんとの涙なんだろうかなんて考えてしまう。もっと私より泣いて落ち込んで良い人がいるのに。
父さん側のじいちゃんばあちゃんの記憶はない。
私にとって、じいちゃんばあちゃんは母さん側の2人だった。もうどっちもいない。
じいちゃんが亡くなった時も、ばあちゃんが亡くなった今回も、アルバムを見せてもらったら、意外なほどに私の写真があった。何人もいる孫のうちの、下の方の孫なのになんだか嬉しい。写真を見て愛でてくれてたのかと思うと。
同い年のいとこと2人で、満面の笑みで写っているチビの頃の写真を眺めて、
『この写真見ると、めんこくてなぁ、ばあちゃん笑ってしまうんだ、いっつも見てるんだ』と言ってた。なんとなーくうっすら撮られた記憶もある。遠い思い出。こんなのをいっつも見て心を慰めてたのかと思うと切ないし嬉しいし、じんわりしたけど、写真なんかよりもっともっと会ってあげたら良かったよ。
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