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さぬきBEN情報

四国高松に生まれ高松を愛するBENのうどん県玉藻の国情報

先日17年目の1・17を迎えました。昨年の3・11と同じように日本人なら忘れてはならない日

それも17回目、仏教の世界では17回忌は特別な年ですが・・・


当日の新聞に載っていたのは、激震地を流れる武庫川の河原に17年間積み上げ続けられた石積みの「生」の文字。あえて懐中電灯でライトアップされた文字は今はやりのLEDのように明るくはない「あかんたれ」な光かもしれませんが、川の増水の度に積みなおし続けた多くの人の祈りや思いが籠った暖かい光です。

それは賽の河原を渡った多くの犠牲になった人たちをお迎えする、行燈の光だったのかもしれません。


17年の年月が長いか短いかと言えば、当事者の皆さんにとってはたぶん大変な思いをされた、またはされている長い年月だったと思いますが、近年その年月を感じる出来事がありましたのでその事を書いてみたいと思います。


17年前のあの日、突然の大揺れ(高松でも震度4)に、飛び起きた私は無我夢中で隣室で寝ていた息子達を守り、揺れが収まったところで状況把握の為つけたテレビに映っていたのは、見事な夜景を誇っていた神戸の街の暗転。

学生時代に世話になった三宮の変わり果てた姿に愕然としました。

あわてて武庫川の上流と下流に住む姉と下宿で世話になった叔母に電話

最初にかけた叔母は無事通じましたが後の姉は音信不通

半日心配しましたが、幸い無事で、携帯もインターネットも十分でなかった当時やっと使えた公衆電話からの知らせでした。

身内が無事であったことへの感謝と昔世話になった神戸の街のためにと参加したボランティア活動

そこで見たのは、当時から無気力、自己中と言われた若者たちが大阪方面から壊れた線路づたいに、物資をいれたバックパッカ―スタイルで黙々と歩く姿。

関西弁で言うと「あかんたれ」と言われていた若者たちの懸命なボランティア活動に感銘を受けると同時に

それに反して給水を受けに来る大人たちの無言で前後不覚に落ちいった姿に事の大変さを改めて痛感しました。


17年たった昨年暮れ、久しぶりに三宮に降り立つと、街はかつてと変わらぬ賑わいでしたが、駅前の旧そごうデパートは昔の姿の半分で、神戸市役所は昔より一階少ない形で当時のまま立っていました。

同行した年輩の知人に当時、市役所が震災で一階潰れた話をしたら覚えていませんでした。

17年の月日は人の記憶にはあまりにも長いのでしょうか?

「災難は忘れたころにやってくる」とは言うものの、3・11東北の震災はあまりにも悲しい現実です。


数年前に私の職場にいた青年はその現実を長い間背負っていました。

彼は大学の講師をしながら、私の会社に請負会社の社員としてアルバイトをしていました。

よく聞くとそれ以外にも深夜のバイトをするなど、そんなに頑張らなくてもと思うほど仕事をしていました。

生活に困っているようでもなかったので、不思議に思っていましたが、ある日彼の出身地を聞いて愕然としました。

神戸市長田区。彼の年から逆算すると、当時小学生だったはずです。

幸い身内は助かったようでしたが、それ以上の事は言葉を失いました。

想像にすぎませんが、当時の彼の目の前に広がった惨状は、彼の心に今も傷を残しているのでしょうか?

「神戸市長田区なんですが・・・」の言葉の重みを今も思い出だすと、頑張るしかない彼の心の闇に

「あかんたれでえやないか」と言ってやりたかった。


今彼はどうしているかわかりませんが、17年経った今も彼はその思いを背負って生きているのでと思うと辛くなります。彼の未来が明るいものになることを祈るばかりです。

先日も17日の夜のNHK番組であの津波を生き延びた「釜石の奇跡」と呼ばれる百有余名の小学生が出ていましたが、現地の状況を見るにつけ、彼らの先には多くの壁が立ちはだかる事と思われますが・・・

ニュースに流れる東北のこどもたちの映像は、自分たちが、街を東北を元気にするんだとがんばって言っていますが、彼らにも現実はそうは甘くないことを知らされる日が来ると思います。その時こそ

「あかんたれでえやないか。また明日がんばろう」

と励ましてやりたいと思っています。それが10年後だろうと20年後だろうと。永いつき合いになりそうですから。


そんな思いのした17年目の1・17でした。