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とりあえずその時書きたいことをつらつらと。

『消えた画 クメール・ルージュの真実』は、ピンボケした映像で始まります。それは、リティ・パニュが体験した過去が遠い記憶の中で、ぼんやりとしたイメージで残されていることを表現しているようです。なぜ、イメージが明確にならないか。それは、自分が体験したはずの、悲惨な歴史を映し出す証拠(映像)が残っていないからです。

そこでリティ・パニュは、人形を使って自身の体験を、歴史を物語ろうとします。
この作品では、「映像が残っていないこと」、「クメール・ルージュ側が自分たちに都合のよいフィクションの映像を残していること」が繰り返し言及されます。

そしてクメール・ルージュ側による人々への自由の抑圧、思想統一の様子が、人形を使って描かれていきます。なぜ、リティ・パニュはわざわざ人形を使ったのでしょうか。生きた人間、俳優ではなく。

それは、ジョシュア・オッペンハイマー『アクト・オブ・キリング』とは全く逆の発想といえるでしょう。
『アクト・オブ・キリング』では悲惨な歴史を、俳優どころか、それを行った張本人が再現することで私たちに提示されます。

過去の残酷な行いを本人が語り、演じることで、その悲惨な歴史が真実味を帯びてきます。
ただし、それはあくまで真実味でしかありません。

リティ・パニュにしろ、『アクト・オブ~』のプレマンたちにしろ、そこで語られる物語は、あくまで彼らの体験としての真実でしかなく、客観的な事実ではありません。
実際に犯行を行った者の演技は、真実味を帯びた「証言」のような役割さえ果たしていたと思います。
しかし人形劇では、真実味はおろか、語られていることが、どこかつくりもののようにも感じ取れてしまいます。しかしそれは、作品の内容が、語り手の一個の体験であり、ひとつの真実でしかないことを表しているようです。

その点で、リティ・パニュの人形を使った手法は、「真実」という語への誠実さを感じました。
自分の物語は自分なりの真実であり、そこに妙な真実味は不要なのだ、というような覚悟のようなもの。
もちろん、『アクト・オブ・キリング』が誠実ではないということではありませんが…。

むしろ、凄惨な過去を独自の手法で物語ろうとする力強い2つの作品を、同じ年に鑑賞できたことに深い喜びを感じました。つらつらと思いついたことを書きましたが、とりあえずこの2本を連続で観て、対比できるような機会があれば嬉しいと思います。