わがまま文具店 -2ページ目
散り始めた桜の木の下で
夕べのテレビの彼をなぞっている
久しぶりに見た彼は
脳梗塞の後遺症で片足をひきずり
背中を丸めて
ズルズルと歩いていた
すっかり
すっかり老人になっていた
黒いジャンパーと
深く被った帽子は相変わらずで
でも
ひとまわりほど小男になったようだ
いつもそうだけど
彼のインタビューの部屋は
暗い暗い部屋だ
わずかな明かりに
顔の片面だけ浮かび上がらせて
とめどなく言葉をつなげていくのだけれど
やはり唇の動きがぎこちないのだ
ときおり
カメラのレンズが彼をねめ上げると
めがねの奥が青光りしていて
彼の両目はまだ死んでいないと
私は嬉しかった
彼はいつも怒っている
従軍慰安婦や
エイズにかかって死につつある少女や
戦場の娼婦のことや
独房で懺悔しつづける死刑囚のことや…
彼の見据えた苦悩の量は
彼が自分を恥じる量と比例している
ああ
まったくやっかいな男だ
しかし私と彼には
たったふたつの共通点がある
昭和十九年生まれだというアホらしいことと
ともにがん患者であるということ
そのとき突然
目の前が真っ白になった
川から吹き上がってきた突風で
あたり一面
膨大な桜の花びらが枝からちぎれ
逆巻き乱舞したのだ
私はアッケにとられ
近くのベンチのひともワアーッと驚きの声をあげ
やがて風がおさまったとき
私は笑った
ほんと
花見の似合わない男だと
2012.4.18 海ふみこ
私のかわいそうな癌細胞
「生きたい」って
あたりまえに思っているんだ癌細胞だって
なのに目の敵にされ
ゾンビのようにうとまれて
いじけて悲しい癌細胞
「おまえ身の程を知れ、これ以上のさばると
全員玉砕だぞ」
白血球やら
リンパ球やら
NK細胞やらの
正義の仕置き人に
取り囲まれ
攻撃され
死ね死ね死ね
消えてなくなれ
食ってやるだなんて
なんてひどい仕打ちだろう
コピーミスだの
できそこないだの
失敗作だのって
わたしのせいじゃない
だってここで生まれたんだ
外から進入したバイキンなんかじゃないんだから
兄弟じゃないか
いじけて寂しい癌細胞
ところで
私は私の
かわいそうな癌細胞には会ったことがない
CT画像で確認したけれど
話ししたこともない
私をこんなに悩ましているというのに
まるで他人のように隔たっているなんて
まったくもって
まか不思議
「不思議なこと」は
最近になって怒涛のように押し寄せてくる
私はまるで小学生だ
イノチってどこから来たの?
私を作った父と母
その精子のイノチはどこから来たの?
その卵子のイノチはどこから来たの?
ともあれ
生まれたイノチは
「生きたい」という目的を持っているらしい
一途に「生きたい」のだ
どうあっても「生きたい」のだ
そうだとも!
私の中の細胞は
私を生かすために生きたいのではなく
細胞は細胞自身が「生きたい」からだ
細胞の中の核は
細胞を生かすために生きたいのではなく
核自信が「生きたい」からだ
核の中の分子もきっとそう
私が「生きたい」のだって勿論
私の所属している膨張し続ける宇宙のためではなく
私自身が「生きたい」のだ
宇宙というのは
「生きたい」生命体の集まりで
その欲求のほかには
なにも重要なことはないのだし
深くかかわりあってるくせして
カンケイないそぶりで
ほんの紙一枚のすきまさえ無い繊細さで
入れ子のように重なっているのかもしれない
宇宙の中に順々に宇宙が入り込んでいて
宇宙の外にも順々に宇宙が広がっていて
大きいものからミクロのものまで
果てしなく果てしなくあって
私はその入れ子のひとつに
生息しているのかもしれない
しかも
私もまた宇宙といえる
私を構成している細胞にとって私は宇宙だ
細胞の中の核にとっても
細胞は宇宙であり
核の中の分子もまた宇宙を持っている
そうしてここでも
お互いよんどころなく繋がっているくせに
なぜかとてつもなく孤独だ
ああしかし
私は長く生きたので
私という細胞は古くなってしまった
私の宇宙は
私という老いた細胞をピチピチしたのに入れ代えて
「生きたい」を続けたいわけのだ
2012.4.12 海ふみこ
時計の秒針が
しゅくしゅくと仕事を続けている
彼はもう何年も休日なしで働いている
人々が彼をふり仰ぎ
目をこらして眺めるので
彼はいよいよ勤勉になる
すぎましたよ
すぎましたよ
今という時間がたったいま
すぎましたよ
彼はそのことを告げ続ける
次から次から過ぎた時間は
かたまってどこかにあるわけでもないし
未来はなおのこと
どこにも見えない
いったい時間てどこにあるんだ?
若いとき彼は
何度かそんなことを考えたものだった
すぎましたよ
すぎましたよ
彼の指先は
未来を指し示し
人々は夢や希望をそこに託すので
彼は仕事を辞めることができない
すぎましたよ
すぎましたよ
今が
すぎましたよ
海ふみこ 2012.3.30

