日本の戦国時代と呼ばれる時期は、
応仁の乱後から江戸時代に入る前まで。


◆戦国大名の登場

◇下剋上
応仁の乱後、下剋上の風潮が高まっていく中で、
守護大名に代わり国を治めていた守護代や国人が独立し、
天下統一しようと大名に成長した。
この大名のことを戦国大名と呼ぶ。

◇戦国大名の出身
下剋上によって戦国大名になった人物
・上杉謙信は越後の守護代から
・毛利元就は安芸の国人から中国地方を支配する戦国大名にまで成長した
・北条早雲は京都から東へ下り堀越公方を滅ぼし関東に勢力をはった。

守護大名から実力で戦国大名になった人物
・今川義元
・武田信玄
・島津氏
戦国大名が自分の力で作り上げた支配地を領国(分国)と呼び、
その支配のことを領国支配と呼ぶ。

◆分国法の制定

◇源流
戦国大名は自己の領国を自力で支配する為に、
独自の法をつくった。これを分国法という。
法には御成敗式目(貞永式目)や幕府法、
国人一揆の取り決め、民間の慣習などが含まれている。

◇特色
年貢未納には厳しい制裁を課し、家臣団にも縁座法を適用した。
中でも、喧嘩業成敗法は有名である。
家臣相互間の物事を自力で解決する中世以来の伝統を否定し、
戦国大名の裁定に委ねることにしたもの。
◆戦国時代という語源

応仁の乱以後の乱れた世相を、
当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ
「戦国の世」と表現したのが語源。

◆戦国時代の始まり

1467年の応仁の乱もしくは1493年の明応の政変を始まり、
1568年の織田信長入京、もしくは1573年に室町将軍足利義昭が、
信長によって追放されたのを終わりとすることが多い。

戦国時代の末期、あるいは信長上洛以後を、
織豊時代や安土桃山時代と区分する事もある。

また、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、
戦国時代の末期として含める場合がある


慢性的な紛争状態が続いた時代。
毎日が戦争状態にあったわけではない。

室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、
守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり、
領国を統治していくことになった。
これを下克上という。


そして、様々な経歴の戦国大名が登場する。
それぞれの実力者同士の衝突が広く日本各地で行われた。
永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に発展し、
無名の庶民が成功を収めることができる経済成長期であったことが時代を支えた。


社会構造が急速かつ大幅に変質していき、
従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊。


それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化。
経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に、
開墾や内外の通商を通じて発展する。
自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した時代であった。

◆応仁の乱後
応仁の乱後も幕府の力は暫く残っており、
1487年の将軍に敵対する近江守護六角高頼攻めには、
尾張国や若狭国など京都近辺の諸大名が従い、
1492年の足利義材の河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。

この河内攻め最中の1493年4月に管領細川政元が、
将軍廃立を図ったクーデターに成功して実権は細川氏に移った。
細川氏も政元死後、澄元・晴元父子と高国の2派に分裂して混迷を深める。

将軍は各地の大名に身を寄せる存在となり、
これによって幕府の中央政権としての権威は決定的に失われ、
地方豪族は自ら力を蓄えるか力ある存在に身を寄せる時代に入った。
この内、自ら力を蓄え自立した者を戦国大名という。

◆明応の政変
将軍である足利義材を追放し清晃を将軍としたこと。
これに対し足利義材は政元の元を逃れて地方へと落ち延び、
近畿諸国は足利義材派と足利義澄派と分かれることになった。

専横を振るった細川政元も香西元長・薬師寺長忠らに暗殺され、
細川家もまた細川澄元、細川高国と2派に分かれて抗争することとなった。

この間隙を突いて1509年に周防国の大内義興が前将軍・足利義尹を奉じて上京。
高国は大内義興と組んで義尹を支持すると、
澄元は義澄を支持し対立。1511年に足利義澄が死ぬと、
澄元方が劣勢となり澄元は何度か京と四国を往復するが、
結果的には権力を奪えず1520年に阿波で死んだ。