【序】

古代中国の思想家・荘子は、「どんな名手でも琴を奏でれば有限である」と語った。これは一見すると、単に無常観を述べた言葉のようにも見えるが、深く読むと「可能性の無限性」と「現実化の有限性」という、現代の情報理論に通じる本質的な洞察を含んでいる。

本稿では、荘子の琴にまつわる寓話を起点とし、情報理論、とりわけシャノンの情報エントロピー概念と接続させながら、形に現れるものの儚さと、現れない可能性の豊かさについて考察する。


【第一章:荘子の琴と道】

荘子は、道(タオ)とは言語や行為を超えた根源の流れであり、どれほど巧みに「表現」しても、その全体を表しきることはできないと考えた。琴の名手がいかに見事な音色を奏でても、その音はやがて消え、空間に溶ける。荘子にとって、「奏でること」とは、無限なるものを有限化する行為にほかならない。

このとき、重要なのは「弾かれていない琴の静けさ」、すなわち“音なき音”の世界である。そこには、まだ形を取っていない無限の可能性が満ちている。


【第二章:情報エントロピーとは何か】

20世紀、情報理論の父クラウド・シャノンは、「情報量」を「不確定性(エントロピー)」として定義した。情報とは、選択肢の中からある一つを選び取る行為であり、その選択が予測しがたいほどエントロピーは高くなる。

つまり、情報とは「確定される以前の可能性の総体」であり、選ばれた瞬間にエントロピーは失われ、情報が出力される。これは荘子の「演奏の前」と「演奏の後」の区別に酷似している。


【第三章:可能性としての道】

荘子にとっての「道」は、形を取る以前の状態であり、そこには無限の可能性が横たわっている。まさにそれは、情報理論における「最大エントロピー状態」と同義である。どの音を奏でるか決まっていない琴の前では、無限の可能性が広がっているが、実際に奏でる瞬間、その可能性は一つに収束し、他の全ての可能性は閉ざされる。

その意味で、「名手が奏でても有限である」という言葉は、いかなる芸術表現もまた、無限の可能性の一断面にすぎないという真理を示している。


【終章:語ることのできないものへの旋律】

荘子もシャノンも、それぞれ異なる文脈から出発しながら、「形にした瞬間に失われる本質」に向き合っていた。荘子はそれを「言えぬもの」、シャノンは「選ばれた後の情報量の喪失」として表現した。

音なき音言葉なき言葉、その背後にある“流れ”を感じとること。それが、道と情報の接点において私たちが求めるべき沈黙の理解である。