海だ。
濁った海面に見上げられ、薄暗い空に見下ろされている私。
時折、雲の隙間から太陽の光が海面を照らしているのが陳腐ながら神秘的だった。
テトラポッドに若干の冷たさを感じながら、私は釣り竿を振った。
ふぅ、と煙草の煙を吐き出す。
吐息の白さと相まったそれはゆっくり揺らいで海風にさらわれた。
その時だった。
「揺れ」を感じた。
大きい揺れではなく、微振動である。
少しの間を置いて海が細波を立てて振動に呼応した。
――地震かな?
そう思った。恐怖心はない。
大きく揺れているわけではないし。
10分…いや15分か。
やたら長い揺れに私は少し不安になった。
私は持っていたラジオの音量を上げた。
地震速報が流れるのを期待して。
しかし、流れていた放送は私を一瞬で混乱へと駆り立てた。
『…送はデマではありません。繰り返します』
地震は静かに続いている。
『現行、全国的な地盤沈下が続いております。関東地方の方々は速やかに群馬県、または山梨県に移動して下さい』
――あぁ?
ふと振り返ると道路が渋滞していた。
車、車、車。
『日本の国土は推定4割海抜0m以下に水没すると見られています。この放送は』
私は悟った。
――この国は終わった。
首都機能の停止、人口の過度の過密、食糧問題・医療問題。
一瞬にして幾つもの問題が浮かび、その分だけ絶望が生まれた。
虚ろな視界に車の列が見える。
東京で一人暮らしをしている私に車などない。
クラクションが聞こえる。
生き残りたい人間の数だけ、それは鳴っているのか。
それに混じって笛を吹く音。
視線をその方来に向けると、警官が交通整理をしていた。
その姿は平和な日本には似つかわしくない。が、自分の命さえ危ういのに最後まで秩序を護らんとする「平和な」日本の警察官の姿なのかもしれない。
私はある覚悟を決めた。
振り返り、釣り竿を海へと捨てた。
なるほど。
さざ波を立てる海面は確かに先ほどよりも明らかに高くなっている。
「…あの」
声を掛けると警官は私を一瞥して交通整理を続けながら乱暴に叫んだ。
「アンタも早く非難して!」
背中越しに言われた一言は警察という組織、そして彼自身が混乱している事を物語っていた。
「私も何か手伝います」
警官は侮蔑に似た視線を私に向けて
「いいから避難!」
と更に乱雑に言った。
しかし私は睨みつけるように強く言った。
「…何か指示を!」
彼は一瞬、困惑の表情を浮かべた。
そして投げやりに言った。
「じゃあ向こう側の交通整理を!こっち止めたら3秒後車流して!」
そして予備の笛を私に渡した。
私は了承の旨を伝え、指示された行動を執った。
なぜ私がこんな行為に至ったか。
慈善の心からか?自己犠牲で自分に陶酔していたのか?
違う。
私の狙いは。
警官の持つ拳銃である。
隙をついて右腰のニューナンブを奪う。
自分の頭に向かって2回、引き金を引く。
――それで、「私」は終わる。
はっきり言って私は諦観している。
生き延びたとして、今を生き延びたとして。
――恐らくは地獄が待っている。
海外からの救助?
要人なら兎も角、私に手が回ってくるのは何時になる。
食糧は確保されているのか?
日本の低自給率に加え、平野が水没するのでは言わずもがなだ。
私は交通整理をしながら、警官を、いや正確には拳銃を見ていた。
恐怖心に負けずに素早く引き金を引けるのか?
理想は奪って逃走できればいいが。
一発目の空砲を考えると
「おい」
予想外の言葉が思考を遮った。
そこには見慣れた顔があった。
友人のAが車窓から声を掛けてきたのだ。
「お前何してんだよ?車空いてっから!早く乗れ!」
「…え、あ」
すると私たちのやりとりに気づいた警官が叫んだ。
「君!早く行きなさいっ!」
「でも」
「早く!」
私は運命を呪った。
終わるはずだった地獄が続く。
――それならば。
私はポケットに入っていた釣り用のニッパーを握りしめた。
警官に小走りで近寄り、借りていた笛を返した。
すぐに振り返り、急いでAの車に乗った。
――それならば、いっそ。
後方で、警官の声が聞こえた。
車は山沿いをひた走る。
振動は未だ続いているらしいが、走行中なのでそれを体感することはなかった。
カーラジオからは刻々と沈みゆく日本が報道されている。
窓から山を見ていた。
自然の法則から外れる事無く、秋の気温低下は木々の離層を促進させ美しい紅葉を生み出していた。
…死につつある葉が生み出されているというのも可笑しな表現か。
「…これからどうなるんだろォな…」
私の方を向くわけでもなくAは言った。
私は答えなかった。
美しい木々が視界を流れている。
――私は生き延びる。
ポケットに手を入れると、ニッパーで切られたコードが指に絡んだ。
その先には拳銃がある。
すれ違いざまに奪ったニューナンブが。
殺人鬼を乗せた車は、静かに道を走って行った。
(目が覚める)
お疲れ様でした。