隣駅までの一本道姉も私も何から話せばいいかわからず黙り込んでいた。



辺りはアスファルトに叩きつけられる雨音と

同じ考えであろうサラリーマン達の足早な靴音だけが、

朝の静かな住宅街に響き渡っていた。



「…お姉ちゃん。」


姉は何も返事をせずこちらをじっと見た。

「これから私たちはどうするべきなのかな?会社帰りとか毎日病院寄った方がいいの?」


「いやーそれはいいんじゃね?土日行けば大丈夫でしょ。ってか仕事終わりじゃ面会時間間に合わないし」


「だよね。。」


「とりあえず私達がやらなくちゃいけないことはお母さんが出来なくなったことのフォローだよ」



「家事とか?」


「まぁ昨日の様子じゃぁ無気力だから夕飯も出てこないんじゃない?」




「じゃ…ぁ私が定時で帰ってご飯作るよ。」



姉は料理全般が非常に苦手だった。

私はアイロン掛けとか掃除があまり好きではなく

姉と私が得意なものを組み合わせれば1人の一人前の主婦が出来上がった。


私も決して料理が得意というわけではなかった。

料理というよりお菓子作りが好きで、

いつもお菓子やパンばかり作っていた。


でも私達家族が倒れるわけにはいかない為、

ちゃんとしっかり食べるように私はその役回りと引き受けた。




「悪いね。私は保険の申請とかやるからさ。」

「お父さん保険入ってるの?」



「しっかり者のお父さんが入ってないわけないじゃん。

エクセルに保険リストが作成してあってそれ渡されたよ。」



その表には数社の保険会社が記載されており、

入院中や死亡時の保険金等が細かく記されていた。

そして、保険関係のすべての書類が一冊にファイリングされていた。



父は仕事でもきっとそうなのであろうが、

とにかく何もかも自分で行う人だった。

人を頼るよりも自分でやってしまった方が早いのだろう。



その性格は私も引き継いでいた。

人を信用していないわけではないのだが、

ちくいち説明をしてやらせて、チェックを行うという行動が面倒で、

常に自分で何でもやってしまう。



父もきっと自分でもすぐにわかるように表にまとめておいたのであろう。

そして頼りない私達でも簡単に理解することができるように。




「お父さんらしいね…。同じB型とは思えないわー。」


その日初めて2人で笑った。


「癌の治療費っていくらかかるんだろう?」


「なんか調べたら“高額医療なんちゃら制度”みたいなのがあるらしいよ」


「何それ?」

「その人の所得によって金額は違うけど、その制度の対象になる治療費については上限いくらって決まってて、それ以上はお金とられないんだって。」


「へぇー。」

「まぁとりあえず私はそういう申請やるから。」



隣駅までの一本道を歩くにつれ、

駅の状況は遠くからでも一目瞭然であった。


状況は何も変わっておらず、人々がホームにすら入れずに改札の前に溢れかえっていた。



タクシーの列にも何十人という列が出来ており、とてもその列に並ぶ気などにはならなかった。


「茶してくかー。」

姉が悪戯っぽい笑顔でこちらに顔を向けた。


姉が何かをさぼる時やずるをするときはいつもこんな笑顔を向けた。



私はそんな手を抜く時はしっかり手を抜く姉の生き方が好きだった。






「やっぱりお姉ちゃんはB型だ。」



私もいたずらな笑顔を浮かべて姉と向かい合った。

目が覚めてリビングに行くと






父が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。

それがいつもの光景だった。






少しずつ父がいないその空間に慣れてきていた。








私はそんな自分がもの凄く薄情で、


冷たい人間なような気がして怖くなった。






昨日の姉から聞いた宣告は思いの外


私の心にずっしりと重石のようにのしかかっていた。




その憂鬱に拍車をかけるように昨晩遅くから降り続いてる雨は


衰えることなくアスファルトを冷たくぬらしていた。






「会社行く気しないなぁ…。」




ため息まじりに玄関を出ると私は桜色の傘を手にした。






私は自分で傘を買うようになってからは決まって淡いピンクの色の傘を買った。


それは私にとって桜を連想させる色だった。






私の生まれ育った街は


東京の中心地に位置しているにも関わらず、


都会の雰囲気はまるでなく、高い建物などほとんどない街。


だからといって田舎のように田園風景が溢れているわけでもない街。




ただただ通学途中の子供たちの笑い声や


ゆっくりと時を刻む大人達がたくさんいる




そんな平穏という言葉が似合う住宅街だ。










唯一自慢出来るのは駅から数キロ先まで咲き誇る桜並木だった。







地元の人間だけがその桜を散歩しながら


楽しむ静かな静かな街。




私はこの街が好きだった。














4月に満開に咲き誇る桜並木を通りながら


駅へ向かう。


上を見上げると綺麗なピンクが咲き誇り、


その隙間から見える青空が私に何か語りかけているような気分になる。








”まだ貴方は頑張れるよ”






”きっとうまくいくよ”








私は4月の新しいスタートを切る度に


背中を押してくれるような桜が好きだった。




心までどんよりと暗くなってしまう

雨雲かかった日には私は桜色の傘をさした。




いつでも上を見上げれば満開の桜が私を見守ってくれるように。


いつでも空を見上げれば満開の桜が私の背中を押してくれるように。







でも今日はこの傘は何の意味も果たさないただの雨しのぎの道具でしかなかった。


たとえ今日、桜が満開であっても


桜の絨毯が私の行く先々まで繋がっていたとしても気分が晴れることはないだろう。








気分は一向に晴れないまま駅へ着くと、


改札の前に人が溢れかえっていた。


駅員が何か大声で叫んでいる。


それに耳を傾ける気にもならず私は駅の電光掲示板に目をやった。






”全線で運転見合わせ中。”






「ついてないなぁー。踏んだり蹴ったりだ。。」







思わず心のセリフから口から飛び出していた。

もうそれを飲み込む元気さえ私には残されていない。




ふと鞄の中で携帯電話が振動していることに気が付き、

我に返った。

ディズプレイを見ると姉の名前が表示されていた。




「ちあき?もう駅いる??」



「いるけど。改札さえ入れてもらえない。」



「とりあえずそっち行くから。待ってて。」




姉が人ごみをかいくぐって私の元へ走り寄ってきた。






1時間前に起きた信号故障が原因で、

全線にて運転見合わせ。


普及のめどはないらしい。






私達の住む街は

この電車が動かなければ足がまったくない。



小さな商店街と住宅街しかないこの街には

駅前にタクシーもなければバス停もない。



自宅付近まで戻れば大都会に出るバスがあるが、

それに乗っては私も姉も職場とは正反対の方向に出てしまう。






つまりこの電車が動かない限り私達はどこへも行けない。







「隣駅まで歩くかー。そしたらタクシーいるかも。」


姉のそんな提案で私達はもう一度傘を広げ歩きだした。

隣駅まで15分前後。



隣駅まで行けば都内でも有名な大きな商店街がある為、

客待ちをしているタクシーも数台はいるだろう。







雨は一向に降りやむ気配はなく、

濡れ続けたアスファルトには行き場をなくした雨が

至る所に水たまりを作っていた。







それはなんとなく私達の心の中を映し出しているような気がした。



週が明け、


その日私はどうしても断れない会社の飲み会があり、


帰ったのが午前0時前だった。



いや、断ろうと思えば断れたのかもしれない。



帰ったとしてもそこに待っているのは

母がはなつ重苦しい空気と、

行き場のない不安感・焦燥感が漂う家。



私はそこから逃げたかったのかもしれない。




家へ戻ると、

母はもう寝る為に自室へ戻っており、


姉だけがリビングのソファーに腰かけてTVを見ていた。




「ただいまー。」


「おかえり。」



冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し


私は喉の渇きを潤す為にそれを一気に飲み干した。



冷たいものが喉を通りすぎていくのがよくわかり、


体に染みわたっていくような気がした。



「あのさ…。」


姉の方を見ると、こちらをじっと見ていた。




「どうしたの??」



「お父さん検査結果出たんだよ。」



その重い口調からなんとなく察しはついた。



ふと姉の後ろにあるTVが目に入った。


姉が到底見そうにないドキュメンタリーの画面が映し出されていた。


姉はソファーに座ってTVを見ていたわけではないことは、


すぐに理解することが出来た。



姉は私の帰りを待つ間、
きっと色々なことに思いをはせていたのだろう。




TVは時として孤独を紛らわす道具となる。


姉は私を待っている数時間の間、ただこの四角い物体を


道具として使っていたにすぎない。





「やっぱり癌だって。」






心の中で絶対に癌ではない。


お父さんはすぐに治る病気だ。



と信じ続ける心と



もしかしたら癌なのかもしれない。


覚悟しておいたほうがいいんじゃないか。



と疑い続ける心が



共存し合っていたはずなのに、


やはり動揺を隠すことは出来なかった。




「そっか。…お父さんは自分の検査結果知ってるの?大丈夫??」


「お父さんは大丈夫なんだけど、お母さんの方がやばいかも。。」



「手術とか出来るの?肺じゃあ取り除けないのかな?」



「なんか手術できないらしいよ。。」

「え?それって末期ってこと??」



「いや、よくわかんないけど…。


とりあえず、腺癌っていう癌なんだって。。」



腺癌何それ?

腺ってリンパ腺ってこと??


必死に姉の話を頭の中に叩き入れ、

自分の中で咀嚼しょうと試みるが、

医学知識も何もなければお酒がまわっている頭では



”父が癌である”



ということしか私には理解することが出来なかった。


部屋には私にとっても到底興味がない

ドキュメンタリーのナレーションだけが静かに流れている。


こっちの焦燥感とは反対し、

落ち着いた静かなナレーションは私の気持ちを余計に逆なで

イライラさせた。



「他の臓器とかに転移とかしてないの??」

自分の声が震えていたことにここで私は初めて気がついた。


「なんとかっていう聞いたこともないような臓器に転移している可能性があるみたい。」


「ん?胃とか肝臓とかそういうメジャーどころじゃないってこと??」


「うん。少なくとも私は聞いたこともない臓器。」


「そっか。」


姉がはっと気がついたように言葉を続けた。


「あ、この転移の話はあんたは知らないことにして?」



「は?なんで?」


「お父さんが良とちあきには転移してる事は絶対に言うな。って言ってたんだって。

だからお母さんとしてもあんた達に話す気はないらしい。」



「なんじゃそりゃ??お兄ちゃんにはもう言ったの??」


「明日、お母さんから言う。って言ってたけど。」



「いくつになってもお兄ちゃんと私は小さい子供のまんまってことか。。」


「うーん。まぁ良はメンタル弱いからアレだけど、ちあきなら言っても平気そうだと思って言っといた。


内緒だからね??」




なんとなく、まだ姉が私に何か隠しているような気がした。


でも言いたくないことを無理に聞くという性分でもない私は


その会話を早々に打ち切り、自分の部屋に戻った。



父にとって良輔…兄と私はいつまでたっても小さな小さな子供なのだと思う。



そして私とは10歳も離れている姉は未だに結婚もせず家にいることから、

これから母の面倒を見ていくことになるのは姉だと考えており、


母と姉だけには色々なことを話すつもりなのだろう。



家族なのにどうして私は蚊帳の外にいなければならないのだろう。

どうして家族全員が同じ情報を共有しないのだろう。

それでは支えるものも、支えられない…。




いつものようにお風呂に入り、


ベットへもぐりこんだ。





ここ数週間のことを考える。


入院する2週間前までは父はゴルフやテニスを普段通りしていた父。


最近になって多少なりとも食欲は減っていたが、

しかし以前が食べ過ぎだったくらいで最近の食欲の方が正常なような気がしていた。



でも入院する数日前から酷い肩こりを訴えていた。


しかし父は痛みに対して非常に大袈裟に言うところがあった。


万年肩こりに悩んでいる私と姉は




「いやーたいして痛くないって!!!大丈夫でしょ!」




なんて明るく父をたしなめていた。






彼はもっと前々から危険信号を出していたのだろうか。


私達家族はあんなにも側にいながら、何も気付いてあげられなかった。


肩こりが酷いって言った時点で病院に連れて行けばよかった。



でもたかだが数日前に病院に言ったくらいじゃあ、

何も変わらなかったのだろうか。





後悔だけが頭の中に駆け巡っていた。


気がつくといつのまにか涙が頬をつたい、
枕に大きなシミを作らせていた。



なかなか眠りにつけない私は
天井をジッと見つめていた。



父は病院の天井を見つめながら

今何を思っているのだろう…

数キロ離れたところに寝ている父に思いをはせた。



そのまま目を閉じ、数時間後にどうにか眠りについた。