そもそも、人と人とが助け合って生きるおのずからの営みの一つが、

カウンセリングなんだと思います。

 

そんな営みは、もともと、<お互いさま>でなりたっているもののはず。

そう、相互的、互恵的、間主観的な場に生じる癒しって言えるものだと思う。

 

だから、「カウンセリングをしてあげる(相談を聞いてあげる)」側、

片方だけの役割を固定して、それを「専門家」にまつりあげたり、ましてや、

その「専門」の役割に対して、対価(見返り)を求めてもよい、という考え方。

 

つまり、心の相談専門の「職業」が成り立つんだっていうのには、にゃんには、むかしから大きな違和感がありました。

 

それは、実家がお寺だったということと無関係ではないと思います。

お寺には、なやみごとを持ったひとたちが集まります。

住職や住職の夫人は、その聞き役となり、もっぱら励ましや助言をします。

それだけではなく、そこに集う人たち同士が、お互いになやみやこまりごとを

語り合って、みなでわかちあいます。

 

そんなふうな<場>を、日常のあたりまえの生活として育ったにゃんは、

働きながら大学院に行き、修了後1年の臨地実習を終え、

マークシートと小論文と面接の試験を受けて、

臨床心理士という民間資格の一つをやっと取れても、

これで、生きるためのお金儲けの手段を得たという達成感があまり無かった...。

 

そんな妙なこだわりから、公費で相談料がまかなわれる(相談料無料の)

公の相談機関での非常勤として、ずっと働いてきました。

 

個人の悩みは、社会から全く無関係にもたらされるものではなく、

少なくとも、社会が作ってしまった大きな悩みは、

社会がその解消のために費用を負担することで責任をもたなくてはならないから、

と思っていました。

 

でもね、にゃんは、こうして自分が生活するため、経済的に自立するために、

公費からお給料を頂いているのですから、

これもまた、自分に都合のよい虫のいい言い訳だな....とおもいます。

 

他者が持っている固有の有形無形のものやことを奪ったり犠牲にすることなく、

他者にとっての他者である自らが、生きていくということは、ありえないのです。

 

助け合うという行為は人間が社会で生きていくときに必須の営みだから、

こころ深いつつしみある人ならば、だれにでも出来ることだ、というのが、

「カウンセリング」の祖ロジャースの「素人カウンセリング」の考えではなかったか

とにゃんにはおもえるのです。

 

でも、こころの「カウンセラー」は、2年前に、

公認心理師という国家資格になってしまった。

今年9月に国家試験があって、第一号の国家「公認」の「心理師」が誕生します。

 

 

 

..................「国家」と「社会」とは、違うのです。

 

「国益」と「公共の福祉」がすり替えられてしまう虞だってある。

とくに、日本がこれから戦争をすることになれば、ね........。