公認心理師国家資格は、定められたカリキュラムを受けて単位を得、国が認めた代行試験機関でのマークシートテストで6割(たぶん)の正解が出せた人が、一生にわたって名乗れる(「名称独占」)ライセンスです。
つまり、医師や弁護士と同じく、環境や一定の条件に恵まれた人たちが、思い立ってがんばりさえすれば、誰もが取得できる資格です。
日本には、すでに臨床心理士という資格名称がありました。
国家資格ではありません。
ユング心理学を分かりやすく日本に広め、文化庁長官にも成られた河合隼雄さんたちが主導して作った、民間資格です。
「臨床心理士」の役割として、河合隼雄さんが描き示したのは、「心理療法家」の姿でした。
河合隼雄さんが提唱した「心理療法」は、「宗教と科学の接点」にあります。
医師の役割とは異なり、医師と匹敵する対等な能力(「専門性」)によって、「こころ」を治し癒す「専門家」として目指されてきたのが、「臨床心理士」でした。
「宗教と科学の接点」で行われる「心理療法」は、「宗教」にも「科学」にもつながりを持ちます。
古手の臨床心理士の中には、いま「スピリチュアル」などの言い方でくくられる「臨床」の在り方を体現してきた人たちが、けっこうたくさんいらっしゃいました。
そのような「こころの治療」は、科学で成り立っている学問には受け容れられない、「ニセの科学」に基づくので、国家が公に、認めるものではない、飛鳥時代から続き明治維新と共に廃絶するまで国家が設けていた「陰陽寮」ではあるまいし。
......という社会や近代科学の常識を果敢にくつがえそうとしたのが、河合隼雄さんだったのだと思います。
この「スピリチュアル」な能力は、一生懸命に勉強してもなかなか後から身につくものではありません。
もちろん、お金で買えるものでは、絶対にありません。
修行....という方法があるでしょう?って、そうですね。
シャーマンにも修行型のシャーマン(人類学などでは「プリースト」と呼ばれることもあります)がありますから。
臨床心理士は、「プリースト」の仲間といってもよいでしょう。5年の免許制や、師匠(大学・大学院の指導教官)をとりまく小教団(≒学派:スクール)は、良かれ悪しかれ、そのような性質を示していました。
そして遂に、公認心理師の国家資格化によって、臨床心理士と河合隼雄さんの臨床心理学は、完全に敗北しました。
河合隼雄さんが生きておられたら、どのように嘆かれることでしょう...。
河合隼雄さんが描き示してこられた日本の臨床心理学は、終わったのです。
とどめを刺したのが、日本臨床心理学会という名の政治運動組織を率いる人たちであった、という嘆くに嘆けない皮肉。
日本独自の臨床心理学の実践の在り方を研究しようとしてきた私達が、日本精神科病院協会の御用組合に実効支配された日本臨床心理学会の人々からSLAPPで訴えられて排除されたことは、この事情の可視化でした。しかも氷山の一角です。
これからは素質を問わず誰でもがマニュアル通りにできる「心理療法」...「心理商法」がまかり通っていくでしょう。
そんな公認心理師の未来は、現在の精神科医療に見ることができます。
古手の精神科のお医者さんの多くは、患者さんを総体的(全人的)に診る漢方医とどこか似ていたと思います。
つまり、ソシオ(人間関係)・バイオ(身体)・サイコ(心理)から患者さんに多元的に接近する在り方です。
外からは見えないこころの治療には、病の本態を見抜く、現代の科学の範囲では語りきれない能力が必要でした。
その生まれ持った素質を活かせた癒し人が名医として、患者さんや弟子たちに尊敬されてきました。
一方、製薬会社エージェントの活動で作られたアメリカの診断マニュアルに従って、数分の診療で病名をつけ、その診断に対応する薬を無造作に処方するのが、標準的な現在の精神科医の治療方法です。
それが、「科学」と称されて認められた方法です。つまり、精神科医に成るには、(スピリチュアルな)資質より、医師国家資格に通るだけの経済力が主だつ環境が条件となります。
逆に、そのような外側の条件が整えば、誰にでも成れるのが、現代の「こころの専門家」なのです。
この精神科医師の「指示に従う」しもべとして、公認心理師という国家資格は、設計されているのです。