公認心理師が誕生すると、いままで「教育カウンセラー」や「臨床心理士」など民間団体の認定資格を持つ人たちが占めてきたスクールカウンセラーの職務を、「教育カウンセラー」「臨床心理士」に替わって公認心理師が務めるようになります。

 

もちろん、長年「教育カウンセラー」「臨床心理士」「産業カウンセラー」などの民間資格や、「精神保健福祉士(医療圏の国家資格)」を持っていて、これまで事実上「心理」の仕事に従事してきた人たちが、国家試験を受けて「公認心理師」として、教育現場に入って行くのが、数年後から当たり前のことになっていくでしょう。

長く医療現場での心理職を務めて来た人が、スクールカウンセラーになった時、学校という<場>の独特さに戸惑うことが多いのではないかと思います。

今後、国家資格の公認心理師が、学校現場のカウンセラーとして、いったいどのように使われようとしているのかは、教育臨床での経験が20年越えのわたくしにも未だまったくわかりません。

 

ところで、学校現場のカウンセラーが取り組む多くの事案の中で、飛び抜けてむつかしい問題は、「いじめ」だとわたくしは思っています。

 

先日、小松和彦さんの『異人論』を引きましたが、この著作が発表されたのと同時期に、赤坂憲雄という人が、小松さんとは別のベースからの刺激的な処女作『異人論序説』を発表しています。その赤坂さんは別の本で、「シカト」と呼ばれる、いじめについて、以下のように書いておられます。

 

身体に加えられる暴力ならば身体で反撃することもできる。言葉による暴力ならば、言葉でやり返すこともできる。...

しかし、子どもたちが、「シカト」と呼ぶ集団的な無視は、目には見えず、間接的であるために、反撃するいっさいの手段があらかじめ封じられている、その意味では考えられるかぎりで、もっとも残酷な排斥行為であるにちがいない。...

一人対集団という不均衡を背景とする…もっとも高度に象徴化された全員一致の暴力のかたちが「シカト」なのである。

(『排除の現象学』1991年、ちくま文庫46~47頁)

 

わたくしが引いてこれるのは、もう30年前のガラパゴス資料って言われてしまうかもしれません。(とくに文化人類学では新しい文献の引用が求められるので....)

ですが、ここにご紹介した赤坂さんの、1991年の『排除の現象学』の「シカト」と呼ばれる「いじめ」の構造分析は、いまの学校で子どもたちが置かれている情況を、充分に語り尽くしていると思います。

学校って、いまでも「みたらごん」や「せんせいに言うたろ~」が伝承されているように、時を超えて文化が継承され続けている希有な<場>の一つかもしれません。

 

でも、この「シカト」という、究極のいじめは、学校だけでなく、社会の中のいろいろな組織の中でも、一人一人は「良識ある」「善良な人」と見受けられる大人たちの間で、たくさん起っていることです。

 

ここでまた、このブログテーマ(いつもの話し)に戻ってしまうのですが、いまわたくしが苦しんでいる恫喝(SLAPP)訴訟、そのそもそものきっかけは、わたくしからの新たな学会活動企画の提案や、精神医療問題への取り組みの要請や支援、具体的な細々とした事務運営の改良提案に至るまで、数名の人を除く、20名近い運営委員会の古株の役員の方々からの「シカト」にあったのです。それへの抗議が、「運営への重大な妨害」「学会への誹謗中傷」と一方的に意味づけられて、わたくしは「永久除名」となりました。

(その経緯についての事実確認のための連載を、昨日から始めたところです。)

 

思えば、初めて運営委員になったばかりのまさに「異人strenger」のわたくしが、古株役員さんたちのどのような思惑があったのかは今となってはわかりませんが、20期事務局長に無理矢理据えられました。

そして、まもなく「シカト」が始まりました。

 

あらためて申しますが、わたくしを「シカト」し続けてきた組織は、「公認心理師」法制化を中心になって推進してきた人たち、つまり、日本臨床心理学会運営委員会(=全心協(=日精協)の方針を代理する人々)なのです。

 

 

わたくしが事務局長として心身ともに苦闘していたとき、そのような「シカト」には加わらずに、助けてくださった数名の方の中に、ヒアリング・ヴォイシズの日本への紹介者の佐藤和喜雄さんが、いらっしゃいました。

 

....ですが、とても残念なことに、この裁判を通して、「シカト」する人々(勝ち組)の方に佐藤さんは身を委ねてしまわれました。そして、SLAPP原告の人々と一緒になって、わたくしたちを排斥されるようになられました。

 

ここには、赤坂さんが言われるように、「いじめを構成する場自体のはらむ圧倒的な強制力の前に、なすすべもなく、翻弄されている」「共同性に違背することの恐怖が共同性そのものを成立させている」システムが稼働しているのでしょうか。

 

いま、小池新党をめぐって政局を騒がせる「排除の論理」の語が、かつて流行語大賞となったのは、1996年だったそうです。

国政というマクロの世界は、学校でのいじめ、学会内紛争という身近なミクロの世界としっかりと繋がっているのだと思います。

 

政治の勝ち組に与しないものは、集団的暴力の極みである「シカト」に晒され、マクロからミクロに至るまで、未来の生活のすべてが損なわれてしまう。

それが、いまわたくし自身が体験していることなんですね。

生きているうちに起ってしまった原子力災害、そして、もしかしたら戦争も....けっしてあり得ないことではありません。

正常化バイヤスの効力は、もう無効な世界に既に突入しているのだと思われます。