超自然的な存在の「声を聴く」ことは、シャマンの根幹的使命の一つです。

 

統合失調症と近代医療文化圏で見做されることが他の文化圏では、患者が患う症状ではなく、治療者の側の治療的能力の一つと見做されることがあるという、事実。

 

この医療人類学的、いやせめて文化/社会精神医学的な見方への展開ないし転回を、今日に至るまで、この学会の人たちは、しようとはしなかった。

いや、一切の関心すら無かったのかもしれません。

 

ただし、1993年にこの国に初めてこの技法を紹介した佐藤和喜雄さん(彼が原告側の構成員である限りSLAPP裁判に、まったくに無関係ではないのですが、「訴外」ですので、この方については実名とします。)は、2004年の分科会では、充川さん(仮名)からの「宗教的次元へと広がっていくのが必然ではないか」との指摘に対して、「国際ネットワークではさらに調査される予定」と応じるに留まってられました。

その事後に学会誌に掲載された分科会の記録文には、これからの自分たちの研究指針への取り入れの可能性を全否定されたわけではない纏めの言葉が残されています。

 

しかし、その後、そのような霊性の探究や、文化精神医学的或は医療人類学的な研究へと、この活動が実践研究の対象となったり、活動実践そのものが展開することはありませんでした。

 

佐藤さんは、ヒアリング・ヴォイシズの国際的組織インタヴォイスから、功労者として表彰されたほど、日本におけるヒアリング・ヴォイシズ実践の第一人者なのであり、運営委員長を務められたこともありましたが、奥ゆかしいお人柄で、必ずしもこの学会をぐいぐいと引っ張っていく指導者タイプではいらっしゃらなかったように思われます。

 

佐藤さんご自身が認められるかどうか分りませんが、にゃんは、佐藤さんの出自が、母国を遠く離れた地でのヒアリング・ヴォイシズとの出会いを、運命的なものとしたのではないか、と思うのです。

佐藤さんは、金光教の教祖の高弟で、金光教の発展に大きな功績を残したことで著名な佐藤範雄氏のひ孫に当る(祖父の方が佐藤範雄さんの養子に入られた)方でした。ですので、生まれながらの金光教の信徒です。金光教では、いずれの教会でも教会長が務めるのは、「お取り次ぎ」です。

それは、「声」を聴き「声」を取り次ぐという、神と信徒・相談者との間に立つ役割なのです。

 

ヒアリング・ヴォイシズの場が、真に癒し治しの、意味の有る自閉(蛹)を護り見守り続けることが許される場、そして、シャマンのイニシエーションのように、患者ー癒される者が即ち治療者ー癒す者へと羽化変容する場となるには、そこに「取り次ぎ」のお役目、いわば先達であり仲介者であるシャマンが居なくてはならないのではないでしょうか。

 

「お取り次ぎ」役は、「専門家」と同一視されがちですが、そうとは限らない。癒し癒される(癒すことにより癒される)者として、役割がフラクタルに相互置換される、そのような場として展開するヒアリング・ヴォイシズの金光教的或は産土(うぶすな)すなわち土着的展開の在り方があってもよかったのではないでしょうか。

 

(つづく)