“臨床”とはなにか?

と問うた時、河合隼雄さんの弟子なら…。(私の臨床心理の指導教官は河合隼雄さんの直弟子だったので、私はその孫弟子?になりそうなのですが…)恐らく、河合先生の言葉に倣い、このような自問自答の談話を披露するようです。

「臨床とは何ぞや」、その答えは、「ベッドサイドで〈死〉に寄り添うこと」です。〈死〉とは、死を包み込んだ生ということでしょう。

 学部の臨床心理学講座の初めに、河合隼雄さんのお弟子さんの先生方は(もしかしたら、私と同世代で臨床心理学を学んだ人にとっては、これは案外、標準的な問答なのかもしれませんが....)、たいがいそう言うのだそうです。

   私も初めて聞いた時、びっくりしました。が、そのびっくりが強烈だったせいか、自分自身も時々使いたくなって使っています。そうやって流儀の伝統は、連綿と続いていくのかもしれませんね。

 その“臨床”の語が、この頃は様々な学問領域の中で使われています。臨床社会学、臨床哲学など、「臨床○○学」をよく目にするようになりました。そこでいう“臨床”とは、要するに現場に密着し現場に在る、「存在する」という事ですね。

 存在する(在ること)....つまりBeingです。Beingに対する言葉はDoing。

 Doingというのは実際的に積極的に何かをする。治療、例えば外科などは侵襲的な治療、外科のやっていることをもし医師以外がしたら傷害罪であり殺人罪に至る事もあるような、そういうものがDoing。極めて積極的で侵襲的な行為なのですが、そうではないこのBeing、これこそが臨床心理士の「存在」意義である…、と。

 

 だから、少なくとも河合隼雄さんの後に続こうとしていた臨床心理士がめざしていたのは、医師が専ら行うDoingとは異なります。そして、異なるがゆえにDoingと互いに補完し合う形で、対等な立場での恊働を求めめざしたのです。

 

 でも、公認心理師という国家資格の名称には、“臨床”の文字は含まれていません。

 

 “臨床”は医師・医療者の独占的な業務であるという、解釈が取られることが多いのは事実です。でも一方で、上述したように人文科学や社会科学の領域にも広く用いられている言葉でもあります。

 

 臨床心理士のひとたちの全てが、敢えて、“臨床”という実を捨てて、公認心理師の名を取ったとは自覚されていないかもしれません。

 

 臨床心理士が創設された頃には、おそらく多くの臨床心理士が共通理解として抱いていた“臨床”のたましい、Beingという在り方は、もう過去のものとして滅びていくのでしょうか.....。

 

 公認心理師法42条2項「医師の指示に従う」はどのようにこれから運用されていくのでしょうか....。

 

   これらのことなどを巡って、専門や興味にも学際的な多彩な人々が集う、今回のセミナー/学術大会では、闊達に議論できたらと願われます。