所謂、モーニングルーティーンを続けていた。


だから何?なんだけど


習慣や継続に勝るものはないと思ったし


それが続いている時の達成感や自信は


自分にとって、根拠のない自信になってくれるから


それが自分とした約束だった


だけど


身体が痛くなって

動くのが怠くなってしまってから


この約束を絶賛破棄しまくっている


例えば今ジャーナルを付けたら

きっと痛いって書くし

怠いキツイって書くはず


それはそれはとんでもなく悪い


自己洗脳


になるよな…


だけど本来なら


病に罹って、どう感じたか

そしてどうしてそう感じたのか

つまり自分は◯◯なときに感情が動く

◯◯な状態で

◯◯な感情が現れるということは…


といような感じ(あんまり上手い分析になってないが💦)で分析をして

この経験を元に新しい気付きや発見が

導き出されるんだけど


そんな脳を思考させる

気力すら

身体にひっぱられてしまう。


多分というか間違いなく

自分は病気である認定をしてしまっているのだ。

だから

こうダラダラと休んでしまうし

身体の痛みに負けてしまう


違和感だらけで、自分のコンフォートゾーン外にいるのに


戻そうという働きが起こらない。


ネガティブな思い込みは

いとも容易く

コンフォートゾーン外へ連れ出す


いかにコンフォートゾーン外の環境を

情報空間内で書き換えようとしても

なかなか雑念と潜在意識に引っ張られて

なかなか上手く行かないのに


ネガティブな事態は

脊椎反射的に軽々とコンフォートゾーン外へ

自分の脳を書き換えてしまう


あなたは鬱病です。


と言われて、ガチの鬱になってしまう

と言うのもこういう様なメカニズムな気がする


つまり


人間、どこまで行っても感情の生き物だと思う。


脳は馬鹿で操り易いが

感情を操ることが実は1番難易度が高いと

まざまざと感じている。


さて、一旦病人認定をした自分を

どうやって健康人間に認識を替えるのか。


それは寛解しないとできないことなのか。


病は気から

これこそ人間だけが与えられた

情報空間で記憶を書き換えれる機能を

端的に表した言葉だと思う。


んー、なんか淡々と脳の機能、働き

認知のことを書いていたら


メタ認知が働き始めて

大丈夫🙆って感じになってきた。


こういうジャーナル書けばいいじゃん。


今日はブログを書いたってコトで

とりま約束守れたな。


良し、としよう。



これからヨガの仕事。

ヨガ=健康人間でよくね❓w