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彼女は かつて 僕の 真実の愛だった
この曲の歌詞が 引用されていた
大島弓子の作品は
同じように
深い森に迷い込んだような匂いを持っていた
ポール・サイモン の
深遠にして
閑雅
その 哲学的まなざしを
見ているだけで
満足
どこへ行こう
どこへ行こう
ここに居ようとしてる?
逃げても 逃げても
音はもうしなくて
行けるよ
行けるよ
遠くへ行こうとしてる
イメージしよう
イメージしよう
自分が思うほうへ
雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く
今泣いて何分か後の自分
今泣いて何分か後に言う
今泣いて何年か後の自分
笑っていたいんだろう ?
そう !
笑っていたいのさ !
この間 歯医者で治療中に聞こえてきたこの曲
ん~~~ 何だっけ ??
思い出せず YouTube
あらぁ フランキーさんだったのね。
あの「Relax」の。(笑)
Holly Johnson の声と曲調は好きなんですけど。
バンパイアから君を守る、と言われても・・・(笑)
飛んで火に入る夏の虫、、みたいな ?
1984年 世界初のニューラル・コンピューター。
コードネーム "YOSH"
28年以上も前の研究。
脳の神経回路の学習・情報処理機能は奥が深い。
完成した新しい暗号化法の事業化の次のテーマは人工知能。
最後の聖域。
いろいろな考え方はあって当然だが、
私は原子力発電推進派だ。
原子力に留まらずあらゆる科学・技術には適用のリスクが存在する。
リスクがゼロというものはない。
原油やLNG備蓄基地が何らかの原因で爆発する可能性はゼロではない。
大規模化学プラントも同様だ。
甚大なる環境汚染を引き起こす。沿岸漁業は潰滅する。
日本人の問題は、リスクを受容した上での自己責任を回避する点にある。
例えば、自動車。
年間事後24時間以内に交通事故で死亡する件数は5000人弱、
実際には1週間後乃至数ヵ月後に後遺症で死亡する人や
重度の後遺症を負った人を含めれば万単位となる。
鉄の塊が人の住む生活圏の中を飛び回っている事自体が、
極めて危険であり、その犠牲者は年間万単位で発生している。
そのリスクは無視し、利便性のみに目を向けるなど、全く矛盾した行為だ。
他方、福知山線のような脱線転覆事故が起きれば、
JR西バッシングが始まる。
しかし、電車に乗るということは、脱線転覆する可能性があり、
自分も死ぬ可能性があるというリスクを受容するということであり、
受容できない人は電車に乗るべきではない。
飛行機も、空を飛ぶので、墜落する危険性は常にある。
IATA規約にあるように、そのリスク受容が出来ない人は飛行機に乗るべきではない。
であるから、飛行機事故での死亡保障は僅かなものなのだ。
核分裂、放射線、半減期、ベクレル、シーベルト、学校で習っている筈だが、
それらの意味すら分からず、不必要に恐れ、架空の数字に踊らされ、
垂れ流しの間違ったマスゴミ情報に操作され、単純に原発反対となる現状は由々しき事だ。
それほど恐れるならば、がん検診も手術も受けるな。
強大な宇宙線が降り注ぐ地球から出て行け。となる。
日常服用する医薬品も副作用を伴うので、
リスク受容が出来ない人は服用すべきではない。
医療機関も利用すべきではない。
生活はリスク受容によって初めて成り立つものだということを認識せねばならない。
故に、原子力ゼロを唱えるならば、経済崩壊のリスクを取れということだ。
日本は無資源国であり、途上国の発展に伴い石油の争奪戦が始まり、
今ですら原油価格の上昇基調は留まるところ知らずになるのは時間の問題だ。
加えてCO2排出権枠の購入義務が発生し、莫大な赤字となるであろう。
国債は金利上昇で暴落し紙くずと化し、1000兆円の資産は霧散することになる。
日本の産業は既に空洞化してしまっているが、
止めを刺され、壊滅状態になるのも時間の問題だ。
結局、このグローバル化された国際政治経済体制に組み込まれた現実では、
日本は最貧国に転落し、資源大国・核大国である中国の植民地となるしかないであろう。
太陽光や風力はまやかしだ。
また、よくよく考えねばならない重要な点がある。
それは「可制御性」である。
原子力は勿論、全ての自然現象の応用に当たっては、
その現象を制御することが必要なのだ。
天災は巨大スケールである故に制御性そのものを喪失させるので
別次元の問題である。混同すべきではない。
原子力も適切に制御すれば日常運転では何の問題もない。
天災のような巨大スケール現象を除き、メートルスケールでは、
どのような現象であれ必ず「制御」の方法がある。
反原子力は、核分裂現象の可制御性の放棄であり、そうした考えは、
全分野にわたって可制御性の構築を諦める事に繋がる。
制御のルール無き無秩序、暴走を許すことに繋がるのだ。
どのような自然現象であろうとも、
それを適正に制御し産業振興に応用する事は人類発展の要なのだ。
聖書は膨大な写本の断片から選択的に収集され、
正典として再構成されたものである。
エルサレムが崩壊した西暦70年を境に、
それまでの神殿を中心とする祭礼的ユダヤ教は、
各地のシナゴークでの集会や聖書(モーセの五書トーラー)の
学習へと大きく転換し、ユダヤ教の指導者達はローマ帝国の許可を得て、
エルサレム西部の町ヤムニア(後の西暦132年の第二次戦争でガリラヤへ移転)
にてトーラーの研究を続け、ユダヤの伝統を保持し、
ヘブライ語聖書(旧約聖書)の正典が定められていった。
そこでは、それ以前のギリシャ語、西暦前4世紀から
1世紀にかけて翻訳・編纂された「セプトゥアギンタ70人訳」からは、
多くの正典でないとされた多数の文書(ヘブライ語及びアラム語の写本を持たず、
内容の論理的整合性、その表現容態に疑念があるもの)が排除され、
今日のマソラ本文の範囲が決定された。
それが、今日の「旧約聖書」である。
新約聖書に関しては、西暦32年から90年頃にかけて、
筆者も筆記場所もその時期もバラバラに各書が書かれ、
150年から220年頃にかけて現在の形に纏められ、
旧約に比較して短期間で正典の範囲が定められた。
その正典の基準は、
「使徒やその身近な関係者(マルコやルカ等)によって書かれた」
とする伝承であった。その伝承には確たる根拠は無く、
各書は最初の筆者によってのみならず、多数の人々によって、
後代の写本作成時に削除や加筆がなされたのである。
その典型例として、マルコ伝の末尾16章の後半部分やヨハネ伝8章の冒頭部分
を上げることが出来る。ある写本には含まれるが他の写本には含まれない。
極端に走った近代の反動的「高等批評」では、筆者は疑わしいとされ、
多くの書が偽作とされた。
あろうことか、パウロ書簡のなかでも、テサロニケ第二、コロサイ、エフェソ
ス、テモテ第一、同第二、テトス、ヘブライの各書が偽作とされた。
何が正典なのか、論理的な整合性のある統一基準などあろう筈も無く、
反聖書キャンペーンの所産に過ぎない。
そのような知的劣化の愚劣なる「高等批評」は無視するとして、
現在の「新約聖書」中の文書と一致するものが現れたのは、
アレクサンドリアのアタナシオスの367年の「アタナシオスの第39復活祭書簡」
であり、この手紙の中に書かれた文書群が「新約聖書」の正典として確定されたのは、
397年の第3回カルタゴ教会会議においてであった。
尚、ヤコブ、ヨハネの黙示録については議論があり、結論は先送りされた。
遥か後の16世紀の宗教改革のマルティン・ルターは、
ヤコブ、ユダ、ヘブライ、ヨハネの黙示録の正典性の問題提起を行い排除はされず、
新約聖書に含まれる事になった。
こうした流れがあったものの、神の霊の働きによって、
何事も恣意的にことを進めようとするキリスト教世界にあって、
新約聖書の大枠は固まったのであるが、写本によって内容が異なったり、
写本段階での削除・加筆が行なわれていた事実に鑑みて、
各書の内容の論理的整合性及び表現容態の観点から注意深く聖書を読むべきである。
そのような観点からすると、
ペテロ第二は明らかに第一とは異質なものであり、異なる書名で呼ばれるべきで、
内容吟味の上で受け入れることになる。
また、象徴的な言葉使いや表現の多いヨハネの黙示録には幾つかの箇所で
論理破綻した内容や表現が見られことにも要注意である。
支配の道具:「煉獄」としての「千年王国」
「煉獄」とは、「[ローマ・カトリック]教会の教えによれば,
次の世における段階,場所もしくは状態であり……そこでは,恩寵に浴した状態で
亡くなっても,なお不完全さから解放されていない人々の魂が,
許されていない小罪のための償い,もしくはすでに許された小罪や大罪ゆえに
一時的に受ける処罰に対する償いを行ない,そうすることによって,
天に入る前に浄められるのである」。
(新カトリック百科事典,1967年版,第11巻,1034ページ,英文)
勿論、償いをしない者や反逆した者らは地獄に落とされる。
従って、煉獄とは最初の試みの裁きである。
それは、「聖母マリアと御子」の権威の下にあり、
それに繋がる教皇や教会幹部ら「支配グループ」が煉獄の住人に祈りを捧げて
取り成しを行い、また残された地上の者たちは教皇認可の免罪符やロザリオを
買うことにより、自分の、家族の、友人の、他の人の、煉獄での裁きを軽くする事が出来、
早く天国に行けるという構図になっている
要するに、煉獄とは「最終状態」に至る前の「中間状態」であって、
人間支配の道具であるカトリックの考えそうな概念ではある。
勿論、聖書的根拠は一切無い。
どのように言葉を修飾しようが、
「最終状態」&「中間状態」の二段階救済には変らない。
その教理がWTの中にも「千年王国」の名を借りて存在するのである。
カトリックの煉獄教理において、
「聖母マリアと御子」の権威の下にあって
それに繋がる教皇や教会幹部らの「支配グループ」を
「14万4千1人の王たち」で置き換えれば、
WTの「千年王国」に変容することは明白である。
支配や裁きの時期や期間は大した意味を持たない。
「中間&最終」の二段階のスキームと
「支配グループ」の関与が重要なのである。
この教理構造に於いて、
「支配グループ」の権威は否応無く高められる。
カトリックにあっては「教皇及びそれに連なる教会指導者たち」であり、
WTにあっては「統治体を頂点とする残りの者たち」である。
原始キリスト教の成立過程において、
組織的な支配を目論む者らがあちこちの地域で現れたが
(テサロニケ第二2:3、4で、
「まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わし示されてからでなければ,
それは来ないからです。4 彼は,すべて「神」と呼ばれる者
また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,
こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します」
と予告されたとおり)、
彼らが文書の改竄にまで手を出したのは極めて必然のことである。
「煉獄」と「千年王国」とは、
信者を支配する組織体として同じ教理構造である。
言うまでも無く、「千年王国」は偽りの即ち背教の教理である。
そもそも全体的な整合性も無く論理的に破綻した黙示録20:1-9は、
偽文章であり、何物かが写本の過程において追記したものである。
従って、そもそも千年王国などは存在しないのである。
その意図的な追記文章は、
権威ある階層組織を狙う者らには都合の良いものである。
「煉獄」の型をそこに見ることが出来る。
最終的な裁きの前に別の裁きを潜り込ませている。
黙示録は長年議論の対象であって、
16世紀の宗教改革のマルティン・ルターの頃に至って
正典性の問題提起がなされた末に新約聖書に含まれる事になった経緯を考えれば、
教会組織の強化のためには、そうした追加記述は都合のよいものであった筈だ。
WTにとっては、「神の千年王国は近づく」の書籍に見られるように、
神のイスラエル、霊的イスラエルを特別な存在として組織支配機構の要として
利用できる根拠となる「聖句」なのである。
それは否定されねばならない。