母は、つい先月、11月14日に他界しました。
81年間の生を全うし、
どんなときも前向きに精一杯生ききった人生でありました。
そんな母を見葬ったあと、
実感したことがあります。
それは、肉体の重みというものでした。
人が存在して、肉体をもって生きると言う重さ、存在感のようなものをレイキを通して感じたのです。
生前の母には、ほぼ毎日レイキヒーリングをしておりました。
そして、母が他界した今も母へはレイキを送っているのですが、明らかに肉体があったときとは、違うものを感じるようになりました。
人が肉体をもって生きることの重み、この地上に存在する重み、そうした存在感というものに改めて気づかされたのだと思います。
レイキを学んでいる私にとりましては、こうして新しい気づきを与えていただいていることが本当にありがたいのです。
レイキを送っても、
今の母は、ふわふわと手ごたえがないように軽い存在になりました。
しかし、この体験を通して、母への次のような想いが改めて胸に迫ってきました。
それはたとえ不自由になった体でも精一杯生きた母、
そんな母に対するたまらない愛しさです。
同時に母の温もりが甦ってもきました。
母からは、肉体をもって生きるという意味や、体の貴さ、そして命の重みというものを教えられました。
こんなことは当たり前のことなのかもしれません。
しかし、私は人が生きることの貴さ、肉体をもってこそ人生を生きる、その重みと言うものを体感し、学ばされたのだと感じています。
このことがうまく伝わらなかったら申し訳ありません。
表現が難しいです。
母は、入院してからの9ヶ月余りは、ベッドに寝たきりでした。
自分で寝返りを打つこともできず、たとえどこかがかゆくなって掻きたいと思っても掻くことすらできないほどの、そんな不自由な姿でした。
それでも、私が見舞いに行くのをじっと待っていてくれました。
話すこともできない、食べることもできない、動くこともできない母はどんな思いで生きているのだろう。
そんなことを想像すると、想像しただけでも本当に胸が締め付けられたものでした。
このような状況の中でも、母の瞳は、まるで幼子のようだと感じることが多くありました。
娘の私を、まるでお母さんを眼で追う幼子のような、そんな瞳で見つめているかのように感じたのです。
こんな風に穏やかな時を持つことができたのは、レイキの存在があったからこそであったと思います。
レイキは愛そのものであり、
体も心も更には霊性深くにまで働きかけてくれるエネルギーであることを実感する貴重な日々を与えて頂きました。
母を通して学ばせていただきながら、母とともに癒されたこの数ヶ月間でありました。
息を引き取るその瞬間まで母は本当に立派でした。
その命の燃え尽きる瞬間まで、やっぱり親にはかないませんでした。
最後の最後まで自らの身をもって、命をかけて多くのことを教示してくれたのですから。
ただただ感謝の想いしかありません。
今、母の魂は、肉体から解き放たれ、
自由に次の世を探索し、その身軽さを謳歌しているのではないかと思うのです。