悟り系starseedのNagiです
潜在意識を覚醒させる事をずっとやってきたので、
(なぜならそれがダイレクトに幸せに直結するから)
潜在意識覚醒セラピストやってます

こちらでは主に
更年期・甲状腺機能低下症・橋本病
体のトラウマ治療について書いてます☆
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ナルシシズムの教室
年内スケージュール
11/22、12/27
クライアントの皆様にご連絡です
ナルシシズムの教室の内容を一部変更して
前半はスピリチュアルの話し
後半でナルシシズムの話しに
当分の間変更します
スピリチュアルと現実との両軸で
やってみようと思います
両方を楽しんで下さいね!
甘えの要求を残している人は、
過去世や現世でも、キリスト教的な思想を随分と持っている事が多いと感じる事があります
それの良い例えが何か無いかな・・・?と思って探した所、ドンピシャなのを見つけたのでシェアします
本日は、キリスト教などの宗教を信仰している人は、なぜ、病んでしまうのか?
その心理構造を私なりに書いてみます。
まず最初に、毒親育ち(アダルトチルドレン)の人は、
必ずと言っていい程、甘えの欲求を残しているのです
つまり、幼い頃に十分に甘えられないと、
大人になってからも無意識の内に相手に甘えの欲求を出してしまうのです
※無意識なので自分では自覚出来ていないという事が重要

この時の甘えの欲求は親密になればなるほど激しくなるものなので、
毒親育ちは、恋人や夫婦といった親密な関係になればなるほど、
お互いに甘えの欲求を相手にぶつけてしまいます・・・
けれども、お互いに相手の甘えの欲求を聞いてあげられる程、心が成熟してはいない為に、一緒にいればいる程、関係が悪化してしまうという訳なのです
この心理構造がキリスト教などの宗教にも当てはまるのです
この部分ですね
甘えの欲求を満足させるためには、自分には相手の好意を受ける当然の資格があるという感じ方ができることが条件である。
相手の好意を心苦しく感じるようでは、甘えの欲求が満足されることはあり得ない。
相手が自分のためにいろいろしてくれることを申し訳ないと感じるようでは、その人がどんなにいろいろとしてくれても、甘えの欲求は満たされない。
宗教では、一番上に「神」や「神と同じ扱い」の人が必ずいます
そして、自分は常にその下な訳です


これだけなら、まだマシなのですが、
ここに、「あれしてはダメ」「これしてはダメ」という教義が入って来ます
信者にとって、教義は掟でもあります
宗教は、必ず教義に則って、神への奉仕を求められます
奉仕という名の要求はされるけれど、
かと言って、甘えさせてももらえない仕組みなのですね
甘えさせてもらえてる風なのであって、
本当に甘えられはしない
だから、いくら神に支えても、
神と同じ宗教団体のトップに支えても、自分だけは甘えられはしない
そこに、神に使えた人は甘えの欲求を大いに抑圧してしまう事になるのです
けれども、激しい甘えの欲求は持っているから、
本当の意味で心が成長していく事はない・・・
ちょっと悲しくないですか??

もちろん、幼い頃に母親から十分に愛されて甘えの欲求が解消された人が宗教をやるなら話は別です
つまり、現代の独親育ちの親子の精神構造も、
宗教の教祖や神と支える者との精神構造も、
根底では全く同じ精神構造があると言える訳なのです
「甘え」とは、他者の好意や援助を“当然のように”受け取れる心の状態
これは「自分には愛される資格がある」という自己肯定感と深く結びついています
しかし毒親育ち(アダルトチルドレン)は、
幼少期に「愛される資格がない」と刷り込まれてしまうため、
他者の優しさを申し訳なく感じる構造になります
→ その結果、甘えの欲求は満たされず、無意識下で飢え続ける
宗教(特にキリスト教的構造)では、
神という絶対的存在
信者という従属的存在
が明確に上下関係で分かれています
さらに、
「~してはいけない」「奉仕しなければならない」という条件付きの愛の構造がある
これは「無条件に愛される」体験がない毒親家庭とそっくりそのまま同じです
→ 「神への奉仕(親への尽くし)」が愛されるための条件になってしまう
→ その結果、甘えの欲求をさらに抑圧する宗教構造ができあがる

執着性格の人は、甘えの欲求をうまく出せないまま成長します
「相手に迷惑をかけたら嫌われる」という信念があり、
恩着せがましい親や宗教的権威に対して罪悪感と依存が同居するのです

つまり――
感謝を強要する親も、信仰を強要する宗教も、
同じく「甘えを封じる構造」だということです
「宗教とは、“神という親”に永遠に認めてもらおうとする子供の物語である」
信者は、神という絶対的存在のもとで「良い子」であろうとし、
愛されたい・救われたいという欲求を無意識に投影しています
けれども、
神は「愛してくれる存在」ではなく、「裁く存在」として設定されているため、
そこには甘えを許さない構造が内在してしまうのです
そのため、
キリスト教的世界観に深く染まった人ほど、
「罪」「贖い」「自己犠牲」という形で愛を求め、
結果的に心が病んでしまうことが多いのですね・・・

甘えの欲求を満たすには「自分には愛を受け取る資格がある」と感じられること
しかし、宗教構造(神=上・人=下)はその資格感を根本から否定してしまう
そのため、宗教的信仰や奉仕によって救われようとしても、永遠に愛されない構造の中でもがくことになります
そこから抜け出すには、自分の中にそれと同じ精神構造があるのだと、
ハッキリと自覚する事です
どんなに辛くても、それを認められた時、
初めて、甘えの欲求を満たしていこうと思えるのですから
それを恩着せがましい父親のように、いちいち感謝を要求されたら、甘えるどころではない。
執着性格の人は甘えの欲求を抑圧している
甘えの欲求を満足させるためには、自分には相手の好意を受ける当然の資格があるという感じ方ができることが条件である。
相手の好意を心苦しく感じるようでは、甘えの欲求が満足されることはあり得ない。
相手が自分のためにいろいろしてくれることを申し訳ないと感じるようでは、その人がどんなにいろいろとしてくれても、甘えの欲求は満たされない。
言葉としては不適当であるが、相手は自分に何かをすることを義務と感じ、自分はそれを権利と感じているということがあって甘えの欲求は満足される。
もちろん権利とか義務の問題ではないが。
つまり相手が自分に何かをしてくれることに気がひけないということがあってはじめて、人は甘えられるのである。
恩着せがましい親がいかに子供の甘えの欲求を封じているかということは恐ろしいほどである。
だからこそ子供に感謝を要求する父親は最低の父親なのである。
甘えることが可能かどうかということは、自分の欲求に対する相手の対応の仕方にかかっている。
相手は自分に迷惑をかけられることを決して嫌がっていないということが感じられてはじめて甘えの欲求が満たされる。
自分達の関係はそういう関係なのだということがあってはじめて甘えは可能である。なぜそうなのか、という疑問がわいてこないことが大切である。
自分はそういうかたちで相手を所有していることに何の疑問も感じないからこそ甘えられる。
それを恩着せがましい父親のように、いちいち感謝を要求されたら、甘えるどころではない。
また「ママのこと好き?」ときく母親が最低の母親だとニイルがいうのも当然であろう。
~一部抜粋~
私も、「ママの事好き?」と何回も聞いてしまったよね・・・