↓以下も 渡邊さんの文章です

 

「私の半生に興味を持たれるとは思いもしませんでしたが、好き勝手に生きて来た事だけは確かです。
少し長くなりますから覚悟してくださいね(笑

お察しの通り、1953年(昭和28年)生まれの御年70歳のジジイです。
こどもの頃から漫画とか絵を描くの好きで、中学1年生まではよく描いていましたが、壊し屋でもありました。
小学生の時に左回りの掛け時計を作りたくて、家の掛け時計3個、しっかりバラバラにしてしまい怒られました。

 その後、中学2年生の頃、お向かいのお兄さんがテスコの下請け会社でアンプを作っていた関係で、
テスコのエレキギターを見せてくれたのが切っ掛けになり、ギターに興味を持ち始めました。
当時は、ベンチャーズ全盛で、寺内タケシのコンサートなどにもよく連れて行って貰いました。
結局、どうしてもエレキギターが欲しくなり、同級生の親が経営していた質屋で9,500円のギターを
兄に買ってもらい、弾き始めました。

 当時はエレキギターを持っているだけで不良と言われていましたから、他校の生徒と内緒でバンドを組んで
遊んでいましたが、途中、叔父の会社がエレキギターのボディを下請けで製造している事を知り、ボディとネックを
貰い、友達のベースを作ってやろうと思い立ったのですが、中学生の小遣いではパーツが高すぎて、結局、作って上げられませんでした。
向かいのお兄さんに教えて貰いながら、真空管アンプを自分で作り始めたのもこの頃でした。

 学校の勉強を忘れて、夜中までひたすらギターを弾いていた時代で、将来は音楽でメシを喰うという、脳内お花畑満開状態でした。
そうこうしていると、高校のお受験がひたひたと背後に迫って来まして、こいつから逃げるには、家出しかない、バンドボーイにならなくっちゃ!
と受験日前日に家を出た心算だったのが、家人に見つかってしまい、連れ戻され、滾々と説教されたのですが、勉強は嫌いでは無かったのですが、
どうにも学校が好きになれないと、ガンとして拒否をしていたら、勝手に姉夫婦宅の近くの電気屋に放り込まれまして…、それも住み込みで…。

 その間もギターは弾いていたのですが、仕事も覚えないと怒られますから、仕事優先になったのはしょうがなかったと思っています。
そして16歳の5月に腎臓結核を発症し、療養所へ入所となり治療に専念する事になりました。

 治療に専念する心算が、身体が痛い訳でも無く、横になっている必要も無く、毎日ベッドの上でギターを弾くのに専念した時代です。
これが1年半ありました。
この時にラジオで知ったのが、ジョニーウィンター、ジミヘン、レッドツェッペリン、テンイヤーズアフターなどで、ちょっとショックを
感じました。この頃から英語は勉強しないと…、という気持ちが芽生えたのかも知れませんが、まだ切実にはなっていませんでした。

 17歳の11月に療養が終わり、退所して暫くは姉の経営する喫茶店を手伝いながら、遊んでいましたが、18歳の時に、どこでどう聞きつけたのか、
あるクラブからお誘いが在って、オルガニストとデュオで演奏をする事になりました。
その後、弾き語りの仕事、また別にブルースバンドを組んで別のクラブ、イベントなどでも演奏していましたが、やはりちょと東京へ…と言う気持ちも在りました。

 19歳で一度東京へ行き、銀座でバイトをしながら、模索をしたのですが、ピンで行った事も在り、帰える寸前で六本木で弾き語りの仕事の誘いを受けただけで、
気も乗らず、それも断って帰って来ました。この辺りは挫折の時代でした。

 20歳まで地元のクラブ、イベントなどで仕事をしながら、ちょっとアメリカを肌で感じたくなって来たので、以後、地元の楽器店勤務、バンドの仕事、英語の勉強と
貯蓄に励み、22歳の時に渡米しました。
アメリカは面白かったのは確かですが、ここで人生の岐路に立つことになりました。
オークランド、サンフランシスコ、ポートランドと住んでいましたが、地元の大学生とか、遊びに行ったクラブで弾かせて貰ったりしたのですが、レベルの違いで、話にならないと実感しました。

 黒人のベース、ドラムスのグルーブ感が半端なく、クラブのドアを開けた瞬間、バンドを見なくても、あー今日は白人じゃないなと判るほどでした。
日本人のブルースなんて、こりゃ無理だわ!!10年やっても追いつけん、と。これが自分を音楽でメシを喰う事を諦めさせた第一の理由となりました。
 
 米国滞在中はいろいろ地元の楽器店を覗いたりしていたのですが、今だからヴィンテージが高額で販売されていますが、当時は中古品扱いで、楽器店に安い値段で、ごろごろとありました。
$1,000を超えるギターと言えば、その頃ではアレンビックが在りましたが、店員の話では、$1000を超えると売れないと言う話でした。
しかし、壁を見ると、1954年製のゴールドトップのレスポールが$800とか、当時は¥290/$でしたから換算すると232,000円ですよ??

 もう帰国間際でお金が無かったが、つい買ってしまったのは$400のGibson 1970年製 ES-335TD スパークレッド(レアカラー)でしたが、レスポールが欲しかった…。ポーンショップを覗けば、ペイズリーのテレキャス、テレベースが何本も天井から吊り下げられていました。

 1975年(昭和50年)当時の日本の楽器店はヴィンテージを扱っている所は皆無の状態だったので、これを輸入して販売する楽器店が在っても面白いし、ビジネスになると考えたのは、この渡米が切っ掛けとなりました。

 21歳(1974年)の若かりし頃のイベント時での写真を添付しておきますね。」

 

 

*渡邊さんの若い頃の情熱を感じる写真でカッコいい。