ミカが心配しているといけないと思いながらも、オレはミカに連絡しなかった。

そういえば、中野に会うのが今日だともミカには言っていなかったのだから。


しっかし、危なかったなー。

もう少しで中野のペースに引き込まれるところだったよ・・・。

オレは会社の屋上で、さっき同僚からもらったタバコに火をつけた。

実はミカと付き合うようになって、オレはタバコをやめていたのだ。

けほっと咳が出る。

まずー・・・タバコってこんなにまずかったっけ? 

水の入ったでかい缶にタバコを投げ入れ、ベンチに腰掛けた。


あいつ、これで引き下がるとは思えねーな。

おれは中野の顔を思い出していた。

挑発するような瞳。

ミカのこと、何度も呼び捨てにしようとしていた。

それだけ気持ちを残した女の連絡先を聞いたんだ。

あいつなら、絶対動くな。

次はどう出てくるかだ。


先手、先手ー。


オレはこんな状況なのに、不覚にも楽しくなっていた。

こういう駆け引きは、学生時代にもよくあった。

オレが付き合っている女に手を出そうとした男共を、正論で叩く。

口でオレに勝てるのは、ミカだけ。

ま、それも、オレが惚れてるから突っ込めないってだけなんだけどな。

ミカは絶対に渡さない。

オレはそう決意していた。



*



いつものように、仕事が終わってからミカにメールをする。

『これから帰るよ~』


すぐさまミカから返事がくる。

『気をつけてねー』


ふふっと笑って携帯を閉じる。

今日のメシはなんだろうな。楽しみだ。

さて、帰るとすっかー! 

うーんと伸びをして、オレは弁当箱を抱える。


社員用出入り口で、警備のおっちゃんに呼び止められた。

「おぅ! ボウズ!」

「なぁにーおっちゃん。一応これでも社会人だよ? ボウズはないでしょうー」

オレはおっちゃんに向かって笑う。

「そうだよなぁ。んじゃ、沢村さん、お疲れさまです!」

びしっと敬礼されて、オレも返す。

二人で顔を見合わせて笑う。

おっちゃんは、おもしろい。

「そういえばな、ボウズ。さっきお前の知り合いとかいう男が来て、外で待ってるぞ?」

「だれ?」

「なんつったかなぁ?」

ごそごそとデスクに散らばる書類の隙間から、何かを探している。

「お、あったあった」

おっちゃんの指先が見つけた白い紙は、名刺だった。

「なかの、っていう男だ。今ボウズの部署に内線入れようと思ってたんだ」

おっちゃんは、ほれ、そこ・・・と遠慮がちに外へ向かって指を差す。

その先には、昼間喫茶店であったばかりの、中野がいた。


「なんですかー? 中野さん。こんなところまでついてきてー」

オレはニコニコしながら中野の側へ歩いた。

「悪いな。こう見えて結構しつこいんだ」

中野はにやりと笑った。

「あー、でもごめん。オレ、中野さんがまたオレに会いたくなっちゃうなんて思わなかったからさー、今帰るって、実夏に連絡しちゃったよ」

ごめんねー? とオレは笑う。

「あぁ、そう。じゃあ、悪いけどもう一度連絡してくれるかな?」

「えー? 愛してるよって?」

オレは無邪気な子供のような顔で中野を見る。

少しイライラしたような表情の中野は、ギロリとオレを睨む。

オレは笑うのをやめた。

「中野さん、しつこいよ? オレ、実夏のこと愛してんの。言ったよね? 邪魔すんなって」

冷たい表情でばさりと言い放つ。


中野が黙り込んで、しばらく空気もが沈黙したような静寂。

はぁ・・・と聞こえるようなため息を吐いた寛樹は、真っ直ぐ中野を見据える。

「もう一回だけ言うよ? オレ、実夏のこと愛してる。実夏もオレを愛してる。悪いけどさー美香の連絡先、ちゃんと消しておいてね?」

静かな暗闇に、突然携帯の着信音が流れる。

ミカだ。

きっといつもの帰宅時間より、随分遅くなったんで、心配しているのだろう。

寛樹はもう一度大きくため息をついて、電話に出た。

「ミカ? ごめんねー。なんか急に知り合いの人が会社に来ちゃってさー。もうすぐ帰るから、心配しないで?」

一言、ふたこと話して、愛してるよと囁いて電話を切る。

「ねぇ、もういいかな? オレ、そろそろ帰らないと。腹減ったし、実夏、待ってる」

「待て! まだ話は終わってない!」

珍しく興奮した態度の中野に、寛樹は驚いた。

しかし、ここで怯むわけにはいかない。

「しつこいよ、中野さん。オレはね、実夏が苦しめられているのを見たくないんだ! そっとしておいてくれないかな?」

寛樹も負けずに言い返した。

ギリギリと悔しそうに噛み締める中野に、いい加減寛樹もイライラしていた。


どれくらい時間がたっただろうか。

気がつけば社の駐車場には、寛樹の車と、中野の車、警備員のおっちゃんの車しか残っていなかった。



*



静かだけれど、緊迫した空気の中、キキーという音がして、駐車場にタクシーが乗り込んだ。

急に照らされたヘッドライトが眩しくて、思わず手で顔を覆う。

「寛樹っ・・・!」

暗くてよく見えないが、どうやら実夏が会社まで来てしまったようだ。

パタパタと雪の上を、寛樹に向かって真っ直ぐ走ってきた。

どうやら中野には気づいていないようだった。

オレはミカに向かって手を広げ、飛び込んでくるミカを受け止める。

「あんまり遅いから・・・心配になっちゃって・・・」

潤んだ瞳で寛樹を見上げる。

本当に急いで来たのだろう。

コートの下には、エプロンがそのままつけられていた。

「ごめんね。心配かけちゃって」

寛樹はゆっくりとミカの頬を撫でる。

「あたし、電話切るときに・・・寛樹の様子が変だったから・・・もしかしたら中野と会ってるんじゃないかって・・・」

「うん、そうだよ。そこにいるよ」

寛樹は抱きしめたミカをゆっくりと中野のほうへ向ける。

ミカはビクッと体を強張らせ、寛樹の腕をぎゅっと掴む。


「ミカ・・・」

中野が優しくミカを呼ぶ。

ミカは返事もせず、ただぎゅっと寛樹の腕を掴んでいた。


「ね? わかったでしょ? ミカ、怖がってるんだから・・・」

寛樹はミカの体をもう一度ぎゅっと引き寄せ、強い眼差しで中野を見る。

「もう、謝ってくれなくていいから。そっとしておいてあげてよ、中野さん」

中野は、寛樹の腕の中で微かに震え、ぎゅとしがみついているミカを見て、深いため息をついた。


「ミ・・・藤城、ごめん・・・。ガキのころも、今も、ごめんな・・・」

中野はミカに頭を下げると、バタンと車に乗り込んだ。

そして、静かに車は駐車場を出て行った。


「ミカ、もう大丈夫だよ?」

寛樹の優しい声が、ミカを包む。

「ん…ごめんね、ありがとう・・・」

ミカは小さく呟くと、もう一度寛樹をぎゅっと抱きしめた。



*


ミカの友達からの情報によると、あれから中野は、静岡にある本社に転勤したそうだ。

もう会えなくなる前に、どうしてもミカに会いたかったそうだ。

「ふーん」

寛樹は、ミカの話を、気のない返事で返す。

ミカも何も言わない。


どんなに謝られても、子供のころの怖い記憶は変わらない。

好きだという気持ちの裏返しだったとしても、一度与えられた恐怖は、そう簡単に拭えないのだ。

寛樹もまた、いつ自分もそうなり得るかわからない不安があった。

ミカのことが大好きで、守りたい一身だったが、中野の挑発に乗り、声を荒げたことも事実。

この真っ直ぐな気持ちも、一歩間違えれば、ミカに向いてしまうこともあるかもしれない。

現に一度、実夏を泣かせたこともある。

ずっと大事にするんだ、オレは。