週末にある日本人移住者の2代目と食事をする機会がありました。
ドミニカ共和国は日系の過去の日本からの移住者の子孫が何人かいて
一般的に苦労をして2代目でようやく目が出てきて成功したという
ケースが多いです。
2代目で目が出てきたというのは個人的な見方としては日本人というのは
やはり現地のドミニカ人よりもBiz.の感覚がすぐれるので
Biz.で成功している人が多いように見えます。
その人も現在は様々な商売の経営をされています。

日本とドミニカ共和国。あまり接点がないように思えますが意外とこの両国の
関係は深い。日本政府は今から50年ほど前の1955年から1959年ぐらいに
かけて「カリブ海の楽園」での農業促進計画をキャッチフレーズにドミニカ共和国
への1300人の移民を計画・実行しました。その時に移住した人たちは、
「カリブの楽園」「優良な土地の譲渡」という触れ込みの中、
高倍率の競争を勝ち抜き、現地に移住された人たちです。
最初に送り込まれた日本人の街として
有名なのがドミニカとハイチの国境沿いの街であるダハボンという街で
あり今でも多くの移住者の子孫がそこに住んでいます。
ちなみにサント・ドミンゴからは車で4時間ぐらいの国境沿いに位置。
現在、その人たちが当時の国の責任を問う裁判を起こしています。

なぜかというと「楽園」は実際は生き地獄であり
ほとんどの場合、実際に配分された土地は約3分の1から半分。
その多くが耕作に適さない大部分が砂の砂漠やジャングルや
石ころの山であり、しかも土地の所有権はなかったのです。つまり
農業奴隷に近い立場であり当然多くの日本人は絶望して自殺者も出ました。
日本政府は集団帰国を実施しましたが、残れば約束の土地が手に入ると
言われたり、集団帰国を知らされなかった人たちもいました。
約50家族(当時)の残った移住者たちは、「謝罪と保証」を
40年以上、日本政府に求め続けているという事実があります。