所属している団地の社長昼食会で毎月俳句の話をしている。
今月は8月2日
弁当は、暑い最中なので昼食は毎年恒例の特上のうな重であった。
話は「立秋」について。
 
8月7日が立秋でもうすぐだが、考えて見るとこれから秋が始まるというのが立秋だから、
1年で
一番暑い時だというのも道理だ。
 
1000年以上も前の古今集に、こんな有名な立秋の和歌がある。

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行(伝)
意味は一読瞭然で1000年も前の作品とは思えない。
 
それから800年以上経った江戸の中期の俳諧師がこんな句を詠んでいる。

そよりともせいで秋立つことかいの 上島鬼貫(おにつら)
間違いなく上掲の句を本歌取りして俳諧らしく皮肉っている。
 
1000年も前の和歌や何百年も前の俳句を(当時は俳諧)現代に生きる
我々が同じ日本語をストレートに読めて理解でき共感できる、こうした
言葉や文化の伝承があるということは日本人として誇らしいことだなあと思う。

それから、俳句を嗜むものの一人として、これらの和歌俳句に接する時、もうひとつ
思うことがある。
 
それは、類句類想ということである。
こうした先達の教科書に出ているような和歌俳句があれば、それと同じ発想で、
風の音で秋の到来を感じただとか、
立秋というのに風も吹かず暑いことだ・・などという俳句はもう月並み、類想、盗句
というようなことになって、詠えないということである。
古い句を知れば知るほど、類句は作れなくなるという運命が俳人にはある。
 
そこで困ってこんな俳句を作るのである。
 
鬼貫をなぞりて合点今朝の秋  
 (今朝の秋とは、立秋の日の朝のこと)

というような、話をして時候の挨拶にしたことでありました。