井上ひさしの「4千万歩の男」(伊能忠敬)に、江戸初期に詠まれた発句
暗き夜や月を並べて長話 野々口立圃
が出て来て、ある先輩ブロガーから、何だろうというコメントを貰ったので、
謎解きをした話を昨日書いたが、見事に外れたようだ。
この頃の俳諧の句は、下敷きになる歌や頓知や機知に富んだ言葉遊びがあって
解釈が難しい。江戸川柳も相当の知識がないとさっぱり分からない。
私のチャレンジを多として、先輩から解答をいただいた。曰く、
「月を並べる」の解釈がミソで、月・月=朋 =友である。
即ち、「今夜は月もない暗い淋しい夜だから、貴君と友達になって
あれこれ話をして、長い夜を楽しもうではありませんか・・・。
なるほど・・・・、 朋 (とも) という字は見事に月が並んでいる。
こりゃ、やはり、種明かしがなければ分からなかったワイ。
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俳諧連歌は、江戸に入って松永貞徳(貞門派)によって繁栄した。
上掲の句の作者も門下だったそうだ。
貞門は、古典を重視し古風を尊ぶ俳諧であったそうだが、やがて飽きたらず、
西山宗因は主宰する談林派の滑稽やパロディーを中心にする俳諧に取って代わる。
大衆は10年ほどでこれにも飽き、宗因の死とともに談林も廃れる。
その後の転換を、松尾芭蕉が行なう。
貞門は「詞付」、談林は「心付」といわれたのに対し、芭蕉の「蕉風」は「匂付」と
呼ばれて後に残る時代を創る。
かの「ふる池や蛙飛こむ水の音」は、その宣言であったともいう。
芭蕉亡き後は、俳諧中興の祖、与謝蕪村、江戸末期の小林一茶が、
現代の人も知っていて分かる多くの句を残して、発句の伝統をつないでくれた。
そして、明治に入っては、正岡子規が、従来の「座の文芸」としての俳諧から
発句を独立させ「俳句」と名づけて、個人の文芸に転換させ、近代俳句として
確立させる。
後に、高濱虚子によって確立するが、言葉遊びを廃した客観写生句の伝統は
子規によって既に提唱され、この意味でも、俳句は俳諧の発句から明確に分か
れた文芸となった思う。
このうち、誰が居なくても現代に残る俳句はなかったと思う。
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さて、まだ問題は残されている。
かの謹厳実直な伊能忠敬が、なぜ、旦那衆や大衆の楽しみであった俳諧に
関わりがあったのか?
昼に書店によって立ち読みをしようと思ったが、品切れでまだ果たせていない。