今朝の新聞に、先日新聞を賑わした新発見の子規の選句集について、子規の研究者の復本一郎氏が、子規の新発見の句について書いていた。
「なじみ集」とは、当時子規がなじんでいた句友という意味でつけられた名前であろう。
存在は知られていたが行方不明になっていたのが先般古書市で発見され一躍話題になったのだ。
明治27年に書かれていて、子規の俳句46句のほか、内藤鳴雪 河東碧悟桐 高濱虚子 佐藤紅禄 夏目漱石 幸田露伴など90人もの人の句が載っているそうだ。
今回は中でも、子規の新発見の句5句を取り上げていた。
秋に形あらばへちまやこれならん
この句には異形句として 「 秋に形あらば糸瓜に似たるべし 」
があるそうだ。
十六夜のやみはとゞかずふじの山
この句は墨で消している抹消句だそうだが、異形句として、
「 いざよいの闇とどかずよ不二の山 」 があって貴重な参考句だといっている。
かけものの達磨にらむや秋のくれ
これは流布された句 「 床の間の達磨にらむや秋のくれ 」 と比較できるが
この句の方が良いではないかといっている。
さて、異形句もないあらたな発見の句であるが、
しにゝ行くためにめしくうこじきかな
先日、背景を知らないでこの句だけを見て私は、
「なんとまあ、現実を恐れもなく描写したものだろう」と、絶句したことを書いた。
しかし、今回の記事を見るとこの句は、子規が寒山拾得の画を見て読んだ
そうで(画の賛ではない)、そう聞いて見るとまた、禅の重層的な解釈もありそうで
深い句になったなあと感じる。
更に解説があって、漱石に「 寒山か拾得か蜂に螫(さ)されしは 」という句が
あることを紹介している。同じ時に作ったのであろう。
馬士(まご)一人うまにひかるゝかれの哉
復本氏は、さびしさの中になにかユーモアがあると評している。
先日のブログで私は「馬子に引かれた馬が枯野のなかを往く」と書いたが、
大誤りで、よく見ると、「馬に引かれているのは馬子であって」、とぼとぼと
馬の後から馬子が秋の暮の枯野を歩く姿なのであった。
間違えたから言うわけではないが◎の句になった。
若くして死んだ子規を褒めてあげたいほど好きな句だ。