前回、俳誌「ホトトギス」に対する漱石の虚子への書簡を紹介し、
単に<
子規に対する批判はやめよ。>といったと紹介し、
また、当時の背景について、<
「吾輩は猫である」を発表して「ホトトギス」に
貢献した漱石の立場もあったろう、正岡子規
の朋友として、漱石の虚子に
対する立場も見えてくる。>と書いたが、
これは誤りで、漱石の子規へ発言も正確でないので訂正しておきたい。

漱石はホトトギス誌上の論議について、
「子規は病んで床上にあり。これに向かって理屈を述ぶべからず。」
といっているのである。

ホトトギスは、明治30年に創刊され、この書簡は明治32年12月1日付で出され、
子規が亡くなるのは明治35年、漱石がホトトギスに「猫伝」を掲載し始めるのが、
明治37年である。
つまり、漱石が虚子にこの批判をしたのは、子規は生存中であり、まだ、漱石の
猫が売れる前のことであった。

漱石は、
9月19日に亡くなった子規の虚子からの訃報を受けて
明治35年12月1日付けの虚子への書簡で次のような痛切な俳句を残している。

倫敦にて子規の訃を聞きて

  筒袖や秋の棺にしたがはず

  手むくべき線香もなくて暮れの秋

  霧黄なる市に動くや影法師

  きりぎりすの昔を忍び帰るべし

  招かざる薄に帰り来る人ぞ