最初、漱石と子規には漠然と交流があったように承知はしていたが、無二の親友と

いうほどの交流と相互の畏敬があったとは知らなかった。

私が俳句を始めるまで、漱石が俳句を残していたとは知らなかったくらいである。

 

4月22日のブログで漱石の「子規の画」という一文を書いて少し交流に興味を

覚えて調べると、5月29日前回のブログで書いたように、お互いの別れに寄せた

俳句でその深さを感得したのである。

そして、このたび東北大学付属図書館の夏目漱石ライブラリーを教えてもらい見ると、

その交流を詳しく紹介している。大変興味深かった。

重複せぬように抜粋し紹介してみようと思う。

 

1.子規も漱石も落第している。

子規

「数学の時間には英語より外の語は使われぬという規制」があり、「数学と英語と
二つの敵を一時に引き受けたからたまらない」、「余が落第したのは幾何学に落第
したといふよりは寧ろ英語に落第したといふ方が適当であらう」(『墨汁一滴』)。

漱石

「人間と云ふものは考え直すと妙なもので、真面目になつて勉強すれば、今迄少しも
分からなかつたものも瞭然と分る様になる。(中略)
恁んな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身に
とつて此落第は非常に薬になつた様に思はれる。」(「落第」)

 

2.漱石門下の寺田寅彦は、漱石と子規について次のように回想している。


「熊本の近況から漱石師のうわさになつて昔話も出た。
師は学生の頃は至つて寡言な温順な人で学校なども至つて欠席が少なかつたが、
子規は俳句分類にとりかゝつてから欠席ばかりして居たさうだ。
師と子規と親密になつたのは知り合つてから四年もたつて後であつたが懇意になると
随分子供らしく議論なんかして時々喧嘩などもする。」(「子規庵を訪う記」)


3.漱石は子規が独立をする際に係わっている。


子規は、「試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに
浮かんで来る」ほど「俳魔に魅入られ」「もう助かり やうはない」(『墨汁一滴』)
と観念し、明治25年の学年末試験に落第したことをきっかけにして明治26年3月末、
大学を退学する。

漱石は、「小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。
願くば今一思案あらまほしう」、「鳴くならば満月に鳴けほとゝぎす
(明治25年7月19日書簡)と子規の退学を引きとめたが、
子規は自立の道を選んだのだった。


4.子規は漱石が俳句を始める大きなきっかけを作っている。


子規は、日清戦争の従軍記者として中国に渡っていたが、帰国の途上で喀血し、
療養のための松山帰郷となった。漱石は、子規が上京するまでの五十余日間、
下宿の1階を病身の子規に貸し与え、自身は2階で暮らした。
漱石は、「小子近頃俳門に入らんと存候御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」
(明治28年5月26日子規宛書簡)と述べ、「愚陀仏」と号して子規の俳句仲間に
加わった。
また子規が上京してからは、漱石は句稿を送り、子規に評を求めている。


鏡子との見合いのため上京していた漱石は、明治29年1月3日、子規の居宅
(子規庵)での句会に参加した。
この句会には、子規、漱石のほか高浜虚子、河東碧梧桐、森鴎外らも参加している。


5.子規は漱石が後年今に残る小説家になるきっかけを作った。


「漱石は子規にせがまれて、『ホトトギス』に『倫敦消息』を書いた。
漱石がロンドンから帰って来た時には、子規は既に死んでいたが、当時子規の
後継者として『ホトトギス』を経営していた高浜虚子は、漱石にせがんで、漱石に
『自転車日記』を書かせ、『幻影の盾』を書かせ、『坊つちやん』を書かせた。
さうして漱石は、竟に教壇を去って、純粋な作家になった。(中略)


子規は作家漱石を作り上げる上に、なくてはならない重要な人物であつたと言つても、
決して過言ではなかつたのである。
―勿論子規がなくても、漱石の内なる宝庫は、何等かの機縁に触発されて、
その全貌を示し得たには違ひなかつた。
然し若し子規がなかつたら、漱石は或は、学者としてのみ、その一生を過ごして
ゐたのかも知れなかつた。

その意味では、漱石と子規との交際は、作家漱石にとつては、殆んど運命的な
ものであつたと言つて可いのである。
」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)



6.子規が以下の手紙を書く相手としての漱石がいて子規がゐる様に思へる。


「僕ハ「落泪」トイフ事ヲ書イタノヲ君ハ怪ムデアローガソレハネ斯ウイフワケダ。
君ト二人デ須田ヘ往テ僕モ眼ヲ見テモラウタコトガアル。
其時須田ニ「ドンナ病気カ」ト聞イタラ須田ハ「涙ノ穴に塞ガツタノダ」トイフタ。
其時ハ何トモ思ハナカツ タガ今思ヒ出ストヨホド面白イ病気ダ。
ソノ頃ハソレガタメデモアルマイガ僕ハ余リ泣イタコトハナイ。
勿論喀血後ノコトダガ、一度、少シ悲シイコトガアツタ カラ、「僕ハ昨日泣イタ」ト
君ニ話スト、君ハ「鬼ノ目ニ涙ダ」トイツテ笑ツタ。
ソレガ神戸病院ニ這入ツテ後ハ時々泣クヤウニナツタガ、近来ノ泣キヤウハ
実 ニハゲシクナツタ。何モ泣ク程ノ事ガアツテ泣クノデハナイ。
何カ分ランコトニ一寸感ジタト思フトスグ涙ガ出ル。(中略)


今年ノ夏、君ガ上京シテ、僕ノ内ヘ来テ顔ヲ合セタラ、ナドゝ考ヘタトキニ泪ガ出ル。
ケレド僕ガ最早再ビ君ニ逢ハレヌナドゝ思フテ居ルノデハナイ。
併シナガラ君心配ナドスルニハ及バンヨ。
君ト実際顔ヲ合ワセタカラトテ僕ハ無論泣ク気遣ヒハナイ。
空想デ考ヘタ時ニ却々泣クノダ。(中略)


僕ノ愚痴ヲ聞クダケ聞テ後デ善イ加減ニ笑ツテクレルノハ君デアラウト思ツテ
君ニ向ツテイフノダカラ貧乏鬮引イタト思ツテ笑ツテクレ玉ヘ。
僕ダツテ泪ガナクナツテ考ヘルト実ニヲカシイヨ。…………
併シ君、此愚痴ヲ 真面目ニウケテ返事ナドクレテハ困ルヨ。(中略)


実際君ト向合フタトキ君ガストーヴコシラエテヤロカトイフタトテ僕ハ「ウン」ト
イツテル位ノモノデ泣キモ セヌ。
ケレド手紙デソーイフコトヲイハレルト少シ涙グムネ。
ソレモ手紙ヲ見テスグ涙モ何モ出ヤウトモセヌ。
タダ夜ヒトリ寐テヰルトキニフトソレヲ考ヘ出スト泣クコトガアル。
自分ノ体ガ弱ツテヰルトキニ泣クノダカラ老人ガ南無アミダ/\トイツテ
独リ泣イテイルヤウナモノダカラ、返事ナドオコシテクレ玉フナ。
君ガコレヲ見テ「フン」トイツテクレレバソレデ十分ダ。(中略)


新らしい愚痴が出来たらまたこぼすかも知れないが、これだけいふて非常に
さつぱりしたから、君に対して書面上に愚痴をこぼすのハもうこれ限りとしたいと
思ふてゐる。
金柑の御礼をいはうと思ふてこんな事になつた。決して人に見せてくれ玉ふな。
もし他人に見られては困ると思ふて書留にしたのだから。」 明治33年2月12日付

7.漱石の回顧


明治40年3月末から4月にかけて、漱石は、京都大阪を旅行した。
京都は、かつて、子規とともに訪れた地であった。


「子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思つたのはもう十五六年の昔になる。
夏の夜の月丸きに乗じて、清水の堂を徘徊し て、明かならぬ夜の色をゆかし
きものゝ様に、遠く眼を微茫の底に放つて、幾点の紅燈に夢の如く柔かなる空想を
縦まゝに酔はしめたるは、制服の釦を真鍮と知 りつゝも、黄金と強ひたる時代である。


真鍮は真鍮と悟つたとき、われ等は制服を捨てゝ赤裸の儘世の中へ飛び出した。
子規は血を嘔いて新聞屋となる、余は尻 を端折つて西国へ出奔する。
御互の世は御互に物騒になつた。物騒の極子規はとう/\骨になつた。
其骨も今は腐れつゝある。
子規の骨が腐れつゝある今日に至 つて、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋に
ならうとは思はなかつたらう。 (「京に着ける夕」)