伊予の国は懐かしい場所である。

養子に来た祖父の伊予弁は今も胸と頭の芯に残っている。

そして、正岡子規と夏目漱石の交友の地として、また、高浜虚子、

河東碧悟桐など多くの俳人たちを産み出した地として、更には、

司馬遼太郎の「坂の上の雲」で描かれたの秋山好古、真之兄弟の

生地としての懐かしさである。

 

俳句を始めて初めて、久しぶりに松山へ行く機会があって急いで

松山城や道後温泉子規記念館などを経巡ってきた。

当に、上に書いた人たちは同時代歩いて行ける範囲に幼少時代を

過ごした事を一目瞭然で体感したのである。

 

子規は明治16年に上京し漱石と出会う。

漱石は明治28年に子規を通じて馴染みのあった松山中学校へ赴任する。

同年、日清戦争へ従軍(記者)して喀血して帰郷した子規は、漱石が

居た愚陀仏庵の1階に同居し連日盛んに句会を行い、その時漱石も

俳句を知る。同居期間はわずか50日ほどであったという。

 

漱石が来て虚子が来て大晦日 子規

 

明治29年、子規は上京し、漱石は熊本第五高等学校へ赴任して二人は

別れる。離別の句は二人の交流の深さが読み取れて懐かしい。

 

御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花 漱石

行く我にとどまる汝に秋二つ 子規

 

明治33年、漱石は倫敦へ留学し、子規は35年に36歳の9月17日、

十七夜の月明かりに亡くなる。最後を看取った高浜虚子の句、

 

子規逝くや十七日の月明に 虚子

 

子規の訃報を倫敦で聞いて、虚子に宛てた手紙の中の漱石の弔句、

 

手向くべき線香もなくて秋の暮 漱石

 

明治36年漱石は帰国し、38年に「猫」39年に「坊っちゃん」を

虚子が主宰する俳誌「ホトトギス」に発表するのである。

 

漱石と並べて面映ゆいが、連中の若き群像を懐かしく想像しながら・・、


坊ちゃんの湯の駅四羽の雛燕 skoro

 

ところで、松山城に向かう路面電車のなかで、髭を蓄え帽子を被った

立派な紳士と出会い声をかけたら城へ登るというので話しながらしばらく

一緒になった。10時から仕事があるのでそれまでの時間ということで、

まもなく別れた。

 

翌週の土曜日、NHK BSの松山局発信の「俳句王国」を見ていたら、

その紳士が出演しているではないか、帽子がないので風貌は違ったが、

仙台の方であるから間違いない。立派な句を出されていた。

会ったときは俳句のことは何も言われなかったが、10時からの仕事

というのは俳句王国出演の収録であったのだ。

 

かほどに、伊予の松山という地はさりげなく俳句に縁がある場所で、

誠に懐かしく思うのである。