倉敷は昔の備中の国のなかにあるが、江戸時代から独立した「天領」だったから

ちょっと京都に似た排他的でスノッブなところがある。

倉敷の街の真ん中にある鶴形山から全てを一望できるくらい小さな町だ。

そこに住む人も代々お互いによきにつけ悪しきにつけてその消息を知っている。

 

私は備前の国の岡山生まれであるが、倉敷に親しい親戚があったから、

倉敷には岡山と違った独特の気風があることを子供の頃から感じていた。

 

9日の体育の日に、その倉敷の親戚の一人娘の結婚式に参列した。

花嫁の父親は、私の1級下で子供の頃から、母親の里が同じだから、いつも

もつれ合って遊んで大きくなった兄弟同様の存在である。

そして、今は二人ともなくなったが、我々の父、新婦の祖父と私の父も同年代で、

同じ戦争経験者でもあったから、戦後は意気投合しよく付き合っていた。

 

結婚式は、その鶴形山にある由緒ある倉敷の氏神様で行なわれ、披露宴は

現代風に瀬戸内海が見渡せるホテルに移動して行なわれた。

 

披露宴での挨拶が滞りなく進んで、新婦の祖父の甥にあたる倉敷在の古老が

挨拶に立ち、1枚のまさしくこれがセピア色という古い写真を掲げて話を始めた。

昭和16年に、新婦の祖父が出征する時の記念写真であった。

「出征」といっても今の若い人には何か分らないだろう。

徴兵され、戦場に出向くことを言う。

 

そして、話は、その写真の中に新郎の祖父も写っており、二人は朋友であったという。

更に、新婦の祖父は、新郎の父と母の結婚の仲人だったともいう。

だから、披露宴が始まる前、新郎の父が新婦の父に向かって「Kちゃん」と呼ぶのを

聞いてびっくりしたのだが、その訳が分ったのである。

 

しかし、夫々の孫の結婚は、家と家との見合いではなくて、新婦の友人が新郎の

妹であったという縁で、知り合い恋愛の末結婚に至ったのであった。

まさに3代にわたって、夫々の関係があり今にまで続いていたのであった。

 

狭い倉敷に住んでいると、さほどに人間関係が何らかの形で絡んでくるのだ。

倉敷に限らず、昔は田舎であれ町であれ同様の狭い社会の中で、殆どの人が

暮らしていたが、今は人口も増え核家族になり、町では隣の人も余りつきあいが

なくなる世の中になってしまった。

一面で、嘆かわしいことである。親戚付き合い、近所つきあいが面倒臭いという

世の中にいつの間にか変わってしまったのである。

 

さて、びっくり仰天することがその写真の中にあった。

父と結婚する1年前の未婚の母が、写っていたのである。

おば(といっても2歳上)の主人の出征ということで、駆けつけ一緒に励ましに

行ったと思われる。

 

写真に写る人々の表情からは、悲壮とは言わないが、一命を賭して戦場に向かう

親戚縁者友人の集まりであるから、皆腹が据わっていて、ひしひしとその緊張感を
現していた。

母のそれも、17才でこんな表情ができるのであろうかという、凛としたものであった。