昭和9年の9月21日と言っても分る人は少ないだろう。

私は日にちまでは覚えていなかったが、祖父が昭和9年に岡山市街が洪水で家が

水没したという経験談を度々話していたのでよく覚えている。

昨日、通勤途上のラジオで、9月21日だったことを放送していた。

 

今から72年前のこの日、室戸岬付近に上陸し、淡路島を通って大阪に至った

猛烈な強さの台風の結果、岡山県北に降った雨が一挙に流れ下り、岡山市内を

貫流する旭川が氾濫したのだ。

室戸台風であった。

 

データをみると、気圧は911.6hpa、岡山県内で死者145人、負傷者348人、

家屋4560戸が全半壊したそうだ。床下浸水、床上浸水などの被害も相当のもの

だったことが想像できる。

岡山河川事務所のHPに、当時の詳しい話が、県内の被害写真を含めて載って

いるのを発見した。

http://www.okakawa-mlit.go.jp/hyousiki/page1.htm

 

今までは、祖父の話だけだったのであるが、現実を目の当たりにすると

我が家も大変だったし、県内各地も大変であったし、直撃された関西方面の

被害も大変なものであったことが、真に迫って実感できるのである。

 

そのHPに、その当時に内務省などが台風後、岡山市内外の計数十カ所に設置

した洪水水位を表す標識があることを地図つきで紹介している。

いままで、迂闊にも標識の存在に気がつかなかった。

後楽園の正門裏には道路からの高さ1.98mの標識があり、中国銀行本店

(市内丸の内)では1.6m、倉敷紡績岡山工場(市内中井町)では、なんと、

2.97mの記録が残されている。写真つきであった。

 

祖父は、旭川が土手より高く流れていたことや、これは危ないと思って急いで

家に帰って洪水の準備をしたが、徐々に水嵩が増し、1階の天井に届きそう

になったと、いつも遠くを見るような厳しい目つきで言っていた。

2mを越す床上浸水であったろう。

10年後にはその家も、岡山空襲で消失した。

 

そして、戦後、私の父を含む4人の息子たちに一軒ずつ土地と家を持たるせる事

になることは、私の履歴書に書いた。

祖父にはほんとうに頭が下がるのだ。

 

秋洪水語りし祖父の目の力