10月に入社同期の40年ぶりの同期会を行なうので、お互いメールが飛び交っている。

その中に高校も同期であるK君から、両親が元気でいるので立ち寄ってやってくれと
いうメールが入った。

父親のKさんは、農家でありかつてのわが社のお客さんであったが、岡山市の近郊
の開発によって、田畑は売却なり貸家、貸しビルにされていて、今は、親族10人程
度が食べる米(年一俵60キロ)が確保できる田畑を一部残しているだけだ。

 

先日、通りがかりに懐かしくお邪魔して四方山話をお伺いして、K君の代わりに親孝
行の真似事をしてきた。わずかの時間の間にKさんの一代記、親や息子たちの話ま
で入れて農家三代記を聞いてきたというわけだ。

 

Kさんは大正5年生まれで今年で満九十才になる。お伺いしたときご両親とも留守で、
帰ろうと思うと、向こうから自転車に乗って帰ってこられた。
麦藁帽子の下の顔は久しぶりだが変わっていないくらい若い。
奥さん(お母さん)は近所に遊びに行っている位お二人ともに元気そうだった。

 

10年ほど前に本宅を新築されていて、塀に囲まれ大きなガレージのある広い庭の
ついた立派な本格的な日本家屋であった。
ガレージには今は使わないトラクターが1台入っていた。

「親が田んぼを残してくれたお蔭であり、今は、ありがたいことに月に300万円の
家賃地代が入ってきているが、法人に変えて税金対策もしている」

Kさんにはお客さんが多く、溜まり場になる部屋に庭から直接上がって話し込んだ。

 

Kさんは、三度戦争に赤紙で狩り出され(召集を受け)ている。

最初は20才ころ岡山市内の「金馬館」(懐かしい名前だ)で映画を見ていたら場内
放送で連絡があり、家に帰ったら赤紙が来ていて、中国戦線へ行った。

小学校の同期生が16人いてそのときは5人召集され、2人は戦死したそうだ。

日本が本格的な戦争を中国で始めたころで、年頃の農家の子弟は恰好の兵士と
して狩り出されていたのだ。

 

一度除隊をして、二度目はソ満国境の警備兵。
これは私も知っているが、岡山の部隊は満州から、大挙ビルマ(インパール)や
フィリピン戦線に転進させられ多くの戦死者を出している。
しかし、Kさんは帰国できる幸運があった。二度目の召集であったかもしれない。

そして、三度目は、昭和二十年終戦直前に本土決戦常備隊として宮崎県に行った。


これだけこき使われて、恩給は現在年間60万円程度だそうで、それは、軍曹止まり
だったからだと言われていたが、そのときは恩給の多寡など思いもしなかったから、
昇進のためにうまく立ち回ろうなどとは思わなかったそうだ。

 

同じ農家として、宮崎では悔いが残ることがあったという。

部隊の宿営地は現地調達で作るので、立ち木に近隣の木を切り出して骨組みを作り、
農家が防風林にしていた竹を切って壁を作った。
屋根は、丁度麦刈りのシーズンで麦わらで葺いた。涼しそうな宿営地になる。


ところが、不幸にも早い台風が襲来したものだから、やっと竹の防風林でもっていた
古い農家が風で倒壊するという事故があり、農家の人が泣き叫んでいたそうだ。

アメリカの空襲で被害に遭うことが町ではあったが、田舎でも味方がこんな被害を
もたらしてしまうという悲劇もあったのだ。

 

私の同期生は、次男でまだ現役で働いている。
ご長男は外資系の企業に勤め給料は良かったから退職しても悠々自適だそうだ。


Kさんの先代は、子孫のために農地を守り広げた。
そして、Kさんは、戦争中は本物の戦士として命を賭して国のために戦った。
戦後は、先代の土地を活用して、農業をやり土地の不動産価値を活用して、
自分は果たせなかった進学を子には与え、育ててきた。

子供たちは、戦後立派な教育を与えてもらい、今度は企業戦士として活躍し、
少なくとも、自分の老後の生活を維持できるだけのことは確保した。

そのうえ、いずれ、Kさんがなくなられた後は、莫大な遺産が残る。


こうして、三代目には何ヘクタールという水の確保された農地はなくなり、
全体として日本の農地は失われて来たのである。

だからといって、私はKさんに農地を手放すべきではなかったとは言えない。

子や孫が最低食べる米だけは確保しているだけでも立派なことだ。

 

私は事あるごとに、今、農地を持っている人に、農地はこれからクローズアップされ
役に立つときが必ず来るので、子孫のためにも、国のためのも手放さないよう
訴えている。


私有財産のことだから全く難しい問題なのであるが・・・、国も何とか考えねばならない。