2013年元日の地元紙、北日本新聞の

1月1日から始まった、特集連載記事に目が止りました。


正確に伝えるため、原文のまま抜粋します。


「やわらかな手で」

第一章ひとつ屋根の下で(1)静かな時間

「あっぱれ、じいちゃん」

 2012年3月29日。

 この日、93歳の山谷じいちゃんが、あれほど好きなあんパンを食べるのを嫌がった。介護スタッフが水を飲んでもらおうとしても、なかなか飲み込めない。ベッドで体を起こして座ることもできず、スタッフたちは急に弱った山谷じいちゃんの最期の時を意識した。

 山谷じいちゃんこと山谷司一さんは、富山市針原中町の富山型デイサービス「かっぱ庵」で過ごしていた。古い日本家屋を改装した、落ち着いた雰囲気の建物だ。約10人の利用者は主にお年寄りで、入居して暮らすこともできる。山谷じいちゃんのベッドは、昼間みんなが集まる25畳くらいの和室の隅に置いてあった。ベッドから、手入れされた日本庭園がよく見える。

 スタッフたちと家族は話し合い、延命のための医療を選ばず、自然のまま命を全うしてもらうと決めた。

 4月になっても冷え込みが厳しく、桜は咲きそうにもなかった。4月3日には台風並みの暴風雨が猛威を振るったが、知らせを受けたたくさんの人が訪ねてきた。山谷じいちゃんが寝ているそばで思い出を語り合い、それぞれがお別れをしているようだった。

 山谷じいちゃんは、胃ろうも点滴もしていない。時々苦しそうな息遣いになったが、スタッフが体をさすると、また寝息のようになった。

 かっぱ庵は、富山市綾田町にある富山型デイ「にぎやか」が“姉妹店”として運営するもう一つの事業所だ。認知症のお年寄りを中心にケアするため、07年春に開設した。

 にぎやかの方は1997年のオープンで、古株の山谷じいちゃんはこのころから来ている。妻であるばあちゃんがデイに通い、後に自分も利用者になり、かっぱ庵に移った。長年小さな鉄工所を営んできた山谷じいちゃんは、きっぷの良さでにぎやかの人気者だった。

 山谷じいちゃんは一日一日、ろうそくの火が小さくなるように弱っていく。スタッフたちには、体の中のエネルギーを絞り出し、使い果たそうとしているように見えた。家族は最初、やはり延命医療に頼ろうかと迷う瞬間もあったが、静かな時間の中で、少しずつ自然に山谷じいちゃんが死ぬことを受け入れ、迷いは消えていった。

 往診したかかりつけの医師は、死が目の前にあるのに苦しむ様子がないことに驚いた。山谷じいちゃんの体には1本の管も入っていない。

 4月6日深夜。

 娘と孫が山谷じいちゃんのベッドのそばで話をしていて、ふと見ると呼吸が止まっていた。

 みんなでお風呂に入れ、山谷じいちゃんをまたベッドに寝かせた。スタッフには自然と笑みがこぼれた。

 別れはつらい。ただ、にぎやかは15年間、山谷じいちゃんに伴走し、老いることを否定せず、ありのままを受け入れようとしてきた。そんな毎日を積み重ねてきたから、達成感や満足感に似た思いとともに、笑顔が広がったのだった。

 富山型デイサービスは、93年に富山県で生まれた。高齢者も障害者も子どもも、一つ屋根の下で支え合いながら過ごす新しいケアのかたちだった。主に民家を使い、1日の利用者は10人程度と小規模だ。

 富山型デイの一つ、にぎやかは、死ぬこともありのまま受け入れることを目指し、10人をその畳の上でみとった。

 にぎやかの代表の阪井由佳子さん(44)はみとりを経験し、意外にも「死は温かい」と思うようになった。もう目を開けることのない山谷じいちゃんの顔は穏やかだ。阪井さんは声を掛けた。

 「あっぱれ、じいちゃん」   おわり

私達が富山に帰ってきて、3回目の正月を迎えました。

一人暮らしが長かった母と、いきなりの同居は無理だろうと考えて

近くにアパートを借りました。

2年半が経ち、母は89歳。だいぶ弱ってきました。

同居・・・そして介護

なるべく考えないで、避けてきた事が、現実となってきました。

どんな介護が良いのか?

どんな現実が待ち受けているのか?

先ほど紹介した、北日本新聞の連載特集について、母と話をしました。

「病院に入って管だらけで延命したくない。このじいちゃんのように

眠るように死にたい。それが一番だね」と、母が言った。

まだ、しばらく時間がある。

現実と向き合う覚悟はしなければと年頭に思いました。

そして、春になったら引越しをしよう!

2013年、良い年にしよう!