第五章 木の実を探す秋
春の山菜採りが落ち着くと、しばらくはビーンブーツも休憩だ。さすがに真夏のガムシューは蒸れてしまう。森も草で見通しがきかない。よってトレイルから外れての散策は夏の終わりまではお預け!ビーンブーツの皮の部分にミンクオイルを塗って休ませるんだ。
鳥海山麓に秋が訪れると、森は一変する。夏の深い緑が少しずつ色づき、やがて赤や黄、橙の絨毯を広げる。朝晩は冷え込み、風は澄み、澄み渡る空に渡り鳥の声が響く。その風景を前にすると、私はいつも「木の実の季節がやってきた」と胸が高鳴る。春の山菜採りが「大地の目覚め」を感じさせてくれるとすれば、秋の木の実探しは「自然の収穫祭」に立ち会うようなものだ。そしてまたビーンブーツを履くんだ。
木の実探しは、子どものころから心を躍らせる遊びだった。けれど大人になってからの木の実探しには、また別の意味がある。自然の恵みを分けてもらい、その循環の一部となる、そんな実感をもたらしてくれるのだ。ビーンブーツを履いて森に入ると、落ち葉を踏みしめる音が「かさり、かさり」と心地よいリズムを刻み、私の胸の鼓動と重なる。長靴でもいいのだが、モチベーションが上がるのだ。
秋の森で最初に迎えてくれるのは、クルミの木である。大きな葉を落とした後、枝先にぶら下がる硬い殻が陽に照らされて輝く。地面に落ちた実をひとつ拾い上げ、手のひらに転がすと、その重みが秋の豊かさを物語っている。殻を割るには手間がかかるが、中の実は濃厚な味わいで、苦労に見合うご褒美だ。森の生き物たち、リスやミヤマカケスも、このご馳走を狙って木の周りに集まる。彼らと同じ時間に同じ木の実を求めていることに、私は妙な連帯感を覚える。
さらに奥へ進むと、赤く熟したヤマブドウの房がつるを伝って垂れ下がっていた。ひと粒口に含むと、野性味あふれる酸味と甘みが舌に広がる。市販のブドウにはない深い香りが、口の中いっぱいに広がる。外れるとやたら酸っぱいだけのものもある。手を赤紫色に染めながら集めたヤマブドウは、ジャムや果実酒にすると秋の記憶を長く留めてくれる。発酵の香りが家中に漂うとき、私は森の季節が自分の暮らしの一部になったことを実感するのだ。
森を歩いていると、ふとした瞬間に思いがけない出会いがある。ある年、私が木の実を探していたとき、足元から一羽のヤマドリが勢いよく飛び立った。尾羽の長さと美しさの前にその羽音に驚きつつも、森に生きる命の息吹を間近に感じ、胸が高鳴った。単純に恐怖心が起こっただけなのだが!木の実探しは、ただ収穫するためだけではなく、こうした「偶然の出会い」を含めた総体なのだ。森を歩き、自然と交わる体験そのものが、木の実探しの真髄にある。
秋の恵みといえば、クリも忘れてはならない。落ち葉に隠れるようにいがぐりが転がっている。厚手の手袋でいがを割り、中からつややかな実を取り出す。香ばしく焼き上げたクリは、噛むたびに秋の甘みを口に広げ、心を満たす。子どもの頃に焚き火で焼いたクリの味を思い出しながら、私は秋の森に抱かれていることを感じる。
木の実を集めるという行為は、人間にとって原始的な営みでもある。農耕が始まる以前、人は森で木の実を拾い、暮らしをつないでいた。その記憶が遠い祖先から私たちの中に脈々と受け継がれているのだろう。木の実を探して森を歩くと、時代を超えた人間の営みとつながっているような感覚を覚える。ビーンブーツを履いて落ち葉を踏みしめる音は、太古から続く「採集」というリズムの一部に違いない。
秋の森はまた、冬への準備の場でもある。リスがクルミを埋め、クマがドングリを求めて斜面を歩く。彼らと同じ森の中で木の実を拾いながら、私は自然のサイクルを目の当たりにする。人間だけの収穫ではない。森の恵みは、すべての生き物が分け合ってこそ続いていく。だから私は、必要以上に採らないよう心掛けている。袋が重くなれば「今日はもう十分だ」と足を止める。その抑制こそが、自然との共存に欠かせない知恵だと学んだからだ。
ある年、私は近所の古老と一緒に木の実探しに出かけた。彼は森を歩きながら、木々の姿を見ただけで「このあたりはクリが多い」「あの沢にはヤマブドウが実る」と言い当てた。何十年も森と向き合ってきた人の目は、自然の微細なサインを読み取るのだ。その背中を追いながら、私はただ「実を探す」だけでなく、「森を読む」ことの大切さを教わった。木の実探しは、自然を学ぶ場でもあるのだ。このような経験値が年を重ねるごとに高くなってきた。この経験値を支えてきたのもこのビーンブーツなのだ。
家に持ち帰った木の実は、秋の食卓を彩る。ヤマブドウの果汁を絞って砂糖と煮詰めたジャムは、パンに塗れば森の香りを運んでくれる。クルミはすり潰して味噌に混ぜれば、濃厚なタレとなって里芋や野菜を引き立てる。クリは炊き込みご飯にすれば、ほくほくとした甘みが広がる。ひとつひとつの料理の中に、森で過ごした時間と風景がよみがえる。食べることが、単なる栄養の摂取ではなく、自然との対話の延長にあると気づかされる瞬間だ。
秋の木の実探しは、私に「時間の豊かさ」を思い出させてくれる。効率を優先する日常の中では、食材はただ買うものでしかない。だが、森で探し歩き、手を汚し、背負子を重くしながら得た木の実は、どれもかけがえのない宝物になる。時間をかけることでしか得られない喜びが、森にはあるのだ。
鳥海山ろくの秋は短い。紅葉がピークを過ぎれば、やがて冷たい風が吹き始め、初雪が山を白く染める。木の実を探す楽しみは束の間だが、その刹那の豊かさこそが秋の魅力である。ビーンブーツを脱いで収穫を並べながら、私はまた来年もこの森を歩きたいと願う。自然の恵みは繰り返し訪れるものではなく、その年ごとの一期一会なのだから。
木の実探しは、ただの収穫行為を超えて「季節と共に生きることの証」である。森を歩き、実を拾い、味わう。その一連の営みが、私の暮らしを自然のリズムへと結び直してくれる。秋の鳥海山ろくでの時間は、まさにそのためにあるのだ。